「実は他のレスラーに嫌われていた」ミル・マスカラス セメントマッチとなった伝説の一戦(小林信也)

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 プロレスに熱中した小学生の頃、プロレス雑誌「ゴング」で見た“千の顔を持つ男”ミル・マスカラスに強く引かれた。メキシコの人気覆面レスラー。記憶は曖昧だが、マスカラスが空を飛んで相手に襲いかかる写真がページを飾っていたのだと思う。それを見た瞬間に衝撃を受けた。プロレスの概念を打ち破る立体的な動き。一発で心をつかまれた。マスクのデザインも斬新で、何もかもが新しい世界への誘いだった。

 当時わが故郷・新潟には民放テレビがTBS系1局しかなく、国際プロレスがすべてだった。空中戦と呼べる技は、グレート草津のドロップキックと、サンダー杉山の雷電ドロップくらいだった。マスカラスは全然違う。脳裏に広がる異次元の空中殺法に、空想と憧れがふくらんだ。

 私は、手書きのプロレス新聞を同好のクラスメートに向けて発行した。マスカラスの存在を友人に教えたかった。思えば、ゴング誌を見せれば済んだ話だが、「マスクのデザインもマスカラスがする」「千種類ものマスクを持っている」など、素朴な驚きと興奮を自分の言葉で書きたかったのだろう。それが私の書いた最初の原稿だった。

 そのマスカラスの来日が実現したのは、中学生になってからだ。1971年2月、日本プロレスの「ダイナミック・ビッグ・シリーズ」。記録を見ると、最初の対戦相手は星野勘太郎だ。

 華やかなマスク・デザイン。鍛え抜かれた上半身。登場しただけでそれまで見たどのレスラーとも違う存在感にあふれていた。試合が始まると、想像以上に華麗で魅了された。本当に空を飛ぶように見えた。ロープに飛んでのフライング・クロスチョップはマスカラスの代名詞になった。日本初見参で星野を仕留めたのはフライング・ボディ・アタック。目にも留まらぬ展開に日本中のプロレスファンが圧倒された。

入場曲「スカイ・ハイ」

 マスカラスは42年7月、メキシコのサン・ルイス・ポトシ州で生まれた。大学時代はボディビルとレスリングに打ち込んだ。62年にボディビルでミスターメキシコに輝き、64年東京五輪のレスリング代表候補にもなった。五輪出場を逃した時、メキシコの人気プロレス雑誌編集長から強い誘いを受けてプロレスラーに転向した。その編集長は、雑誌でキャンペーンを展開するだけでなく、マスカラス主演の映画を制作し、次々に大ヒットさせた。マスカラスは本格的にリングに登場する前からすでにメキシコでスターの座を獲得していたのだ。

 日本での人気が沸騰し定着した背景には、イギリスのバンド、ジグソーの楽曲「スカイ・ハイ」との相乗効果があった。最初はマスカラスが来日するシリーズの予告映像にBGMで使った。それがマスカラスにピッタリだと確信した日本テレビのプロデューサーが入場曲に選んだ。

「スカイ・ハイ」が響き渡る中、極彩色のマントを翻し、千の顔を持つ男が軽やかに登場する。「スカイ・ハイ」はオリコン洋楽チャートで11週連続1位、計57万枚のセールスを記録した。マンネリ化しつつあったマスカラスの人気もそれで復活したともいわれる。

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