「ご遺族の意向を押し切って参列」 茂木幹事長が青木幹雄元官房長官のお別れ会に姿を見せた理由

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 山陰地方が記録的な大雨に見舞われた今月9日。島根県出雲市で、6月に死去した“参議院のドン”こと青木幹雄元官房長官のお別れ会が行われた。

「政界引退後も、平成研究会(茂木派)の実質的なオーナーとして歴代政権に影響力を及ぼした。悪天候の中、式典には300人もの参列者が集まりました」

 とは、さる自民党関係者。

「青木さんのご遺族は、事前に“改めて東京でも開催します”と周知し、国会議員には声を掛けませんでした。例外的に招かれたのは、細田博之衆院議長ら中国地方選出議員のほか、小渕優子元経産相くらい。派閥会長の茂木敏充幹事長も招待は見送られていたんです」

 青木氏は平成10年に発足した小渕恵三内閣で官房長官に就任。が、小渕総理は在職中に病に倒れて優子氏がその後を継いだ。その縁で青木氏は、彼女に「実の娘のように目をかけてきた」(地元関係者)ことで知られる。もう一人の招待者である細田氏は、同じ島根県選出の盟友だ。

“茂木敏充の名義の花なら受け取るな”

 先の自民党関係者が言う。

「青木さんは生前、茂木さんを“我(が)が強すぎる”などと蛇蝎(だかつ)のごとく嫌ってきた。二人の確執は最後まで解消されず、青木さんは“茂木敏充の名義の花なら受け取るな。受け取るなら平成研の名義にしてもらえ”と言い残したとも。供花の名義にまでこだわるのは細やかな配慮で有名だった青木さんらしいですが、“そこまで嫌っていたのか”と、改めて対立の根深さが浮き彫りになりました」

 9日の朝、それでも茂木氏は出雲市に向かった。

 政治部デスクが解説する。

「茂木にとり、この日は南米と欧州に向かう外遊の出発日。彼が強行軍にもかかわらず出向いたのは、青木の“最後の一撃”の影響を気に病んだからでしょう」

 青木氏が自身の死後も続けた“茂木切り”に、茂木氏は危機感を募らせた。

「この日、小渕は弔辞を任されていました。個人名での供花すら断られていた茂木は、弔辞を読む小渕の姿が派閥の世代交代を内外に印象付けることを恐れたはず。だから彼は、あくまで遠慮を求めたご遺族の意向を押し切って、強引に顔を見せたとみられています」

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