天皇陛下「英国留学」の原点 水面下で米英がせめぎ合った「家庭教師プロジェクト」

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「米国人は、何ら理解していない」

 宮内庁の式部官長、松平康昌が、海外の王室制度を調査するため訪英することが決まったのだ。松平は、貴族院議員を経て宮中入りし、占領期、連合国との折衝を担った。その彼が、1952年1月、ロンドンへ入るという。これを機に説得しようと、英国外務省は動き始めた。

「(東京での)パーティーの席で、松平や田島(筆者注・田島道治宮内庁長官)は、かなり意図的に、『英国人家庭教師をつける考えは捨てていない。松平の訪英中、この提案に関心を持つ人間と会えないか』と言ってきた。ただ、彼らがどこまで真剣かは不明である」

「いかに立憲君主制を機能させるか、米国人は、何ら理解していない。彼らは、立憲君主とは、ただゴム印を押す者としか考えていない」

 そして、今回、英国側は、家庭教師の人選まで検討した。オックスフォード大学トリニティ・カレッジの学長に、候補者の推薦を依頼した。さらに何と、松平説得に、国王ジョージ6世の長女、後のエリザベス女王まで動員しようとした。

 松平との面談記録を読むと、執念じみたものさえ伝わってくる。

 だが、結局、この時も話はまとまらなかった。時期尚早だったのかもしれないが、そもそもなぜ、英国は、ここまで家庭教師にこだわったのか。それは、英外務省文書の次の言葉から分かる。

「日本は、今後わずか10年から15年で、極東の極めて重要な要因となり、天皇の個人的影響力も、戦前より強くなると思われる。従って、皇室に英国への好意を抱かせるのは、われわれにも大きな利益となる。純粋に政治的観点からも、実現へ全力を尽くすべきである」

 明治維新以来、英国は、あらゆるルートで日本の支配層に食い込んできた。留学生も受け入れ、彼らは、帰国後、近代国家の建設に貢献した。ところが、敗戦後、米国主導のGHQが幅を利かせ始める。立憲君主制も理解せず、自分に都合のいい改革を進めた。今こそ、われわれが存在感を発揮せねば。英国政府の本音を代弁すれば、こういう感じか。

 皇太子明仁への家庭教師派遣、それは、戦後の国益を巡るせめぎ合いだった。そして、今から見ると、浩宮の留学のプロローグになっていたのが分かる。

 80年代、英国は、外務省はおろか、サッチャー首相、エリザベス女王も動員し、留学を全面的に支援した。その裏には、終戦直後、米国に抱いた屈辱感があったのかもしれない。

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