Netflix「サンクチュアリ」を相撲史の研究家はどう見ているか えげつなさを魅力の本質として賛美する声に懸念

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「サンクチュアリ -聖域-」批評への懸念

「サンクチュアリ」が世に出てから、大変に大きな注目を集め、著名人を含む多くの方々が様々な感想を述べた。それらの中で多く見えたのが、本作品に登場する大相撲の「アンチコンプラ」性、非合理性を賛美し、さらにそうしたいわば反動的とも言える思想の旗頭として現実の大相撲をも捉えるというものである。甚だしいものになると「コンプライアンスを上手投げ」というような刺激的な文言まで見えた。いわば、私の見たところの「えげつなさ」を、大相撲の魅力の本源として解する意見である。

 大相撲に対して「時代遅れ」であることを求め、これを肯定的に捉える風潮は古くから存在する。「お相撲さん」のおおらかさ、一般社会からの乖離は多く牧歌的に描かれてきた。大相撲には、当代の思想、文化をすぐには受け付けないような特殊性がある。「御一新」から現代まで、社会が激変を遂げる中で、大相撲はその丁髷姿に象徴されるように、独特の時間の流れの中にあった。歴史的な話になるが、現在の相撲協会の前身である「相撲会所」の起源は、近世前期、元禄時代頃までに成立した同業者の「仲間組織」に求められる。近世期には多くの業界でそうした仲間組織が存在し、それぞれが自主運営されていたのだが、その空気感を大相撲は今によく伝えている。わかりやすいところだと、同業者中での地位の権利を示す「株」という言葉が私の知る限りで唯一残っているのが大相撲である。そうした意味ではまさに「聖域」であって、これは確かに大相撲の魅力の一つであろう。

 しかし、大相撲が常に旧套墨守に終始してきたのかと言えば、決してそんなことはない。具体例を挙げれば、例えば明治42年に開館した両国国技館(現在のそれではなく、戦前に存在した旧両国国技館)は当時「東洋一」とも称される近代的大建築であり、また昭和44年5月に導入されたビデオ判定は他スポーツにはるかに先駆けるものであった。現在でもタブレット端末を用いた稽古映像の共有など、新技術の包摂にはむしろ積極的とさえ言える。新旧文化の混淆、調和が大相撲の空間には存在する。

 いわゆる「コンプライアンス」についてはどうか。相撲には格闘技という側面があり、それを志す血気盛んな若者が部屋で集団生活を送るのだから、一般社会のような秩序を期待するのは元より難しい面もあるだろう。時折世間を賑わすニュースもそれを証している。それでも、多くの関係者が、どうやって現代の価値観念に大相撲を適合させ得るか、大変な努力をしていることも事実である。あまり報道はされないが、若い弟子たちに寄り添った指導方法への模索や、細かな生活面の支援なども耳には入って来るし、暴力廃絶への努力もその流れの中に位置づけられよう。兄弟子の専横ぶりを指した「兄弟子は無理偏に拳骨と書く」という言い回しも、もはや過去のものになりつつある。

 大相撲が時代風潮に一定従わなければならない理由は、単に外的な圧力が存在するということだけではない。大相撲はまさに今活動している共同体であり、その主体は他ならぬ現代人である。時代ごとの要請に合わせて、緩徐ではあるが自発的に変化してきたからこそ、大相撲は今日に生き残れたのではなかろうか(一応付言するが、大相撲は「融通無碍」に何でも受け入れ変化したということではなく、その「相撲らしさ」を保ちつつ、文化として脈々と受け継がれたのである)。

 見せかけの「合理主義」は大相撲の何物をも語り得ないであろうが、大相撲をただ旧時代の遺物として愛玩する態度もまた有害であろう。仮にそれをファンが望んだとしても、必要な変化まで止めてしまっては、この稀有な美しき伝統は早晩消えてしまう。「サンクチュアリ」は、大相撲の精神性を細やかに描く名作ではあろうが、そこにある個々の具体的描写は多分にエンタメとしての「劇画的」なものであって、それをもって現代の大相撲の在り様を論評するべきではない。何より、もしあれが全て大相撲の真実ならば、一体どれだけの子供達が相撲界に身を投じようと考えるであろうか。「サンクチュアリ」には「聖域」と共に「保護区」という訳語が当てられるらしいが、現実の大相撲は常に現実の社会の影響を受けている。

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