夫の再婚相手に前妻が女20人を率いてカチコミ…“恐ろしすぎ日本の風習”「後妻打」

国内 社会

  • ブックマーク

Advertisement

 いつの時代も男と女の気持ちはふとしたことですれ違ってしまいがち。結果、悲喜劇へと発展する例も数知れず……。中世から近世につくられた書物や絵画、物語を見てみると、良くも悪くも「オンナの嫉妬」が、すでに一大コンテンツだったのではないかと感じさせられます。その一部をご紹介。

 オンナの怨みや嫉妬を顕著に表す代表的な風習として、後妻打(うわなりうち)があります。平安時代にはすでに行われていたもので、簡単にいえば「前妻から後妻への報復」です。

 黄表紙作家や浮世絵師として有名な山東京伝(さんとうきょうでん)の記した随筆『骨董集(こっとうしゅう)』(文化11~12年〈1814~1815年〉)によると、まず前夫が新しい妻を迎えると、前妻が親しい女たち20~30人に、一緒に後妻のもとへカチコミに行ってくれるように頼みます。ただ、いきなり後妻の家に突撃するわけではなく、事前に使いの者に頼んで「何日の何時頃に後妻打行くで。覚悟しときや」と正々堂々、宣告するのです。宣告された後妻も知り合いのオンナたちを集めて応戦します。前妻とその仲間たちは竹刀やしゃもじを持ち、後妻宅の家財などを打ち壊します。とはいえ、このまま打ち合いを続けてもキリがないので、仲人や待女郎(婚礼のとき、戸口で花嫁の到着を待ちうけ家内に導き、付き添って世話をする女)などが仲裁に入り、終わります。絶対に男を打ち合いに加えないというルールがあり、まさにオンナたちの闘いだったのです。

 同書の図を実際に見てみますと、後妻チームと離別されて怒り狂う前妻チームに分かれ、右下に後妻打を観戦に来た野次馬たちが描かれています。山東京伝が80歳ほどの老婆に聞いたところ、若い頃になんと16回ほど後妻打への参戦を頼まれたということです。この老婆が住んでいた地域では離婚や再婚が珍しいことではなく、後妻打が頻発していたのでしょう。現代よりも娯楽が少なかったでしょうし、一種のストレス発散イベントだったのかもしれません。なお、この風習は江戸期には徐々に廃れていったようです。

 これだけを見ると、女性はこうしたイベントで嫉妬という感情を発散し、気持ちを切り替えて新しい人生を歩んでいたんじゃないかと感じます。しかしながら、中世以降の物語では、怨みや嫉妬を抱くオンナは、愚か者として扱われ、周囲をも不幸にする恐ろしい存在として描かれました。

嫉妬で人ではなくなるオンナ

 例えば鎌倉時代の初期に成立した説話集『閑居友(かんきょのとも)』下巻に収録されている「うらみふかき女いきながら鬼になる事」には、男を怨んだ末に狂ったオンナの成れの果てが描かれています。

〈 ある男が美濃国に住む女のもとへ通っていたが、遠距離なこともあり、だんだん訪れる回数は少なくなった。女はうぶであったが、通ってこなくなった男を薄情だと思った。

 ときどき会っても二人の気持ちのすれ違いは解消されず、そのうち男は女を恐れるようになり、訪れはついに途絶えた。女は物を食べなくなり、髪を五つに分けて髻に結い、水飴で髪を塗り固めて角のようにし、紅の袴を着て出奔。人々は「つまらない男に執着して正気を失って川に身を投げたのではないか」と話したが、女の行方はわからないままだった。

 それから三十年ほど経った。

 美濃国の野中の破れたお堂に鬼が住みつき、子どもを食うという噂が広まった。そこで人々は鬼退治のためお堂を焼き払おうと火を放った。すると、半分ほど焼けたお堂から、五本の角のある、赤い裳を身に着けた者が走り出てきた。「話したいことがあります! 殺さないでください!」。正体は出奔した女だった。男をとり殺した後、女は元の姿に戻れず、身を寄せる場所もなく孤独にお堂に籠り、鬼として生きることへの苦しみに耐えかね、男を殺した過ちを後悔した。そして「もし人々が怨みで苦しんでいたら、どうかこのような感情を抱くのをやめるように戒めてほしい」と言い、さめざめ泣き、自ら火の中に飛び込み焼け死んだ。〉

 彼女が鬼として生きる苦しみから解放されるにはもはや死ぬしかなかったのです。

 オンナが鬼になる話は、他にもあります。寛永12年(1635年)初版の御伽草子『七人比丘尼』を見てみましょう。この物語は中世を舞台に7人のオンナたちが尼になったきっかけを語り、滅罪(罪滅ぼし)のために懺悔する様子が書かれています。以下はそのうちのひとりの話です。

〈 阿波国に住むきく井殿御台(みだい)は、きく井右近と契り幸せに暮らしていた。しかしある日、夫は都へ出かけて帰ってこなくなった。愛する男を待ち続け、なんと三年が経過した。

 都よりやっと帰ってきた夫に会えて嬉しくてたまらないきく井殿御台。しかし夫の表情は優れない。なんと夫は都から華やかで自分より若い女を連れてきていたのだ。風流で春の風のように洗練された女の登場にいじめてやろうかとも思ったが、アラサーの彼女は他に行くあてもなく、この状況を我慢して、ひとり枕を涙で濡らし過ごしていた。日に日に夫の愛情は都の女に傾く。その薄情さに怨みを募らせ、夫と都から来た女の仲を引き裂くことだけを考え続けた。

 ある日、きく井殿御台は身体に変なできものがあると気づき、確認するとそれは鱗だった。

 鏡を見ると髪は乱れ、目は光り、口は裂け、額は角のように左右に膨れ上がっていた。

 家の者たちはみんな彼女を恐れて出て行き、屋敷には彼女だけになった。

 そこへ行脚の僧が邏斎(ろさい・仏教で、僧が托鉢して米などを請うこと)のために訪ねて来て、彼女は導きを受けることになる。「あの女を殺したい」と言うきく井殿御台のことを僧は否定せず、「それは簡単なことだ。教えのごとく心の皮をめくるのです」と伝え、自分の怒りの感情とひたすら向き合い続け、一切の心身の執着を手放すよう説いて、彼女を仏法へと導いた。〉

 生きながら鬼になる苦しみから解放されるには、「死ぬ」OR「出家」という究極すぎる二択を迫られるのです。

これさえ飲めば嫉妬心も消える?

 中国の房中書に影響を受け、渓斎英泉が記した性典物『閨中紀聞/枕文庫』にも、オンナの怨みや妬みは政治を傾け、身を滅ぼすほどの悪であり、妬むオンナの多くは子どもを授かれないという記述があります。そして、オンナが悪しき嫉妬の感情を克服するための薬のレシピまで書かれています。

〈妬婦(ねたみをんな)を治する妙薬有

天門冬(てんもんどう) 赤黍米(しゃくしょべい)

右、をの/\等分、よく苡仁少計(よくいにんすこしばかり)いれて細末として煉蜜にて丸薬とし、常に婦人五十粒ヅヽ米湯(べいとう)にて飲(のま)しむれバ、ねたみ心止(やむ)〉

 私はこれまで嫉妬を爆発させてきた人生を送ってきたので、この薬をぜひ飲んで妬み心を治してやろうと、作ってみることにしました。

 天門冬は漢方の生薬。赤黍米は書物には赤いキビと説明があります。キビは小鳥の餌用しかなかったのですが、その辺りは気にしません。乳鉢と乳棒でゴリゴリとすり潰し、粉末状にした材料を蜜で練ると、天門冬特有のナッツのような香りがし、色味は蟹味噌そのものです。

 次に、練った材料を指で丸めます。一番大変だったのは、この作業です。甘い方が飲みやすそうだからと欲張って蜜を加えすぎたせいで、指にねとねととへばりつき、なかなか丸められません。材料を足して固さを調節して丸めているうちに、なんだか鼻○ソのように見えてきて、食欲が減退するのを感じました。

 やっと50粒を作ったところで米湯(おもゆ)とともに1粒飲んでみたところ……蜜の甘ったるさと天門冬の苦み、舌触りと色味の悪さに加えて鼻ク○という見かけのバイアスで不味いのなんの。これを日々50粒飲むのはハードルが高すぎます。

 実際の効果ですが、翌日にはパートナーが会社の女性とランチでベトナム料理屋のフォーを食べただけで「不快です」とLINEを送り付けるくらいにはイライラしてしまったので、効いてないですね。

デイリー新潮編集部

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。