高倉健は「自分も特攻隊に…」 鶴田浩二、松方弘樹、渡瀬恒彦…中島貞夫監督が語っていた愛すべき俳優たちの実像

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「首領を殺った男」(1994年)などを撮った映画界の重鎮・中島貞夫監督が亡くなった。88歳だった。温厚で実直な人柄だったため、俳優たちに慕われる人だった。生前の中島監督が語った愛すべき俳優たちの素顔を明かす。

「自分も特攻隊に」高倉健さんが脚本変更を要求

「(高倉)健ちゃんは、自分の生き方や価値観と一致する役しか演じようとしなかった。だから、健さんの生き方とは異なる人物を演じてもらおうとすると、苦労しましたよ」(中島監督)

 中島監督は健さんから脚本の変更を求められたことがある。学徒動員によって特攻隊員となった第14期海軍飛行予備学生たちの物語「あゝ同期の桜」(1967年)を撮っていた時だ。

 健さんは特攻隊員たちの指導者役だったので、生き残る。それが健さんの美学に合わなかった。

 健さんは中島監督に対し「自分としては、どうしても出撃したい」と訴えた。中島監督は「健ちゃん、特攻隊は生き残るほうが辛いんだよ」と説得したが、聞き入れない。

 ホテルの一室でコーヒーを飲みながら行われた話し合いは、夕方から夜明けまで続いた。結局、健さんが折れて、脚本はそのままになったが、2人は一睡もせずに撮影に入った。

 この映画では、健さんの上官役を演じた鶴田浩二さんも不満を訴えた。

「脚本は第14期海軍飛行予備学生の遺稿集に基づいて書きました。遺稿の中には戦争に批判的だったり、懐疑的だったりするものもあり、そんな声も作品に反映したのですが、鶴田さんは納得しなかった」(中島監督)

 鶴田さんは関西大専門部商科1年時に、学徒動員で静岡県の大井海軍航空隊に入った。特攻隊員もいたが、鶴田さんの担当は整備。飛ぶことを希望したものの、かなわなかった。その分、死んでいった仲間たちに対する罪の意識が強く、特攻隊員たちを崇高な存在と捉えていた。

 鶴田さんは「彼らはもっと純粋な思いで敵艦に突っ込んでいったんだぞ」としきりに訴えた。特攻隊員たちは死など恐れていなかったと主張した。遺稿に基づく中島監督の特攻隊員観とは折り合わなかった。

 この作品によって中島監督と鶴田さんは仲違いし、7年間も口を利かなかった。戦争を知る世代の戦争映画づくりの難しさだった。戦争や戦死者に対する考え方に大きな違いがあったからだ。

 2人を和解させたのは、当時の岡田茂・東映社長。エース監督の1人と看板スターの作品がつくれなくては困るからだ。その後、中島監督は鶴田さん主演の「やくざ戦争 日本の首領」(1977年)などを撮った。

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