「白血病」を克服してマウンドに帰ってきた“不屈の左腕”岩下修一

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高校時代に対戦したイチローとチームメイトに

 国指定難病の黄色靱帯骨化症を克服したDeNA・三嶋一輝が、4月26日のヤクルト戦で355日ぶりに、三嶋と同じ難病と闘った中日・福敬登も5月5日の巨人戦で230日ぶりに復帰後初勝利を挙げた。プロ野球界には、病魔を乗り越えて復活をはたした選手が何人かいるが、中でも印象深いのが、“血液の癌”と呼ばれる白血病に打ち勝ち、見事復活を遂げた左腕・岩下修一である。【久保田龍雄/ライター】

 2000年にドラフト4位でオリックスに入団した岩下は、野球選手としては遅い26歳でのプロ入りだった。浜松工のエース時代は、1990年秋の東海大会準々決勝で、イチローの愛工大名電と対戦、2対2の7回に3番・イチローに決勝三塁打を打たれ、翌春のセンバツ出場の夢を断たれた。

 それから10年後、たった1年とはいえ、オリックスでイチローとチームメイトになったのは、不思議な因縁と言えるだろう。

 高校卒業後、三菱自動車岡崎のエースになった岩下は1999年夏、王子製紙春日井の補強選手で出場した都市対抗で、1回戦の本田技研戦の6回2死からリリーフ。左横手の変則フォームから繰り出すクセ球を武器に9回まで1安打無失点に抑え、劇的な逆転勝利を呼び込んだ。

 同年のドラフトでは、「中継ぎなら即戦力」と評価され、逆指名1位のチームメイトで右のエースだった山口和男とともにオリックスから4位で指名された。同年のオリックスは指名4人と少数ながら、仰木彬監督は「例年なら100点と点数をつけるけど、今年は点数がつけられないくらいうまくいったドラフトだった」と最高の評価をしている。

鉄アレイを病室に持ち込んでトレーニング

「プロは子供のころからの夢だった」という岩下は「(26歳は)まだまだ体力のピークはこれから。自信はあります」と活躍を誓った。1年目の2000年は4月2日の近鉄戦で8回2死からリリーフでプロ初登板。ローズを三振に打ち取り、“左キラー”をアピールした。

 5月5日のロッテ戦では、2対2の4回2死二塁のピンチで小坂誠を空振り三振に打ち取ったあと、5回も3者凡退。直後、チームが3点を勝ち越したことから、うれしいプロ初白星を手にした。「チームに貢献できて良かった。これからも積み重ねていきたい」の言葉どおり、同年はチームトップの44試合に登板した。

 ところが、さらなる飛躍を期した翌2001年7月、突然病魔が襲ってきた。原因不明の高熱を発し、病院で診察を受けたところ、急性骨髄性白血病と告知された。

 11月までの4ヵ月間、毎月1週間ずつ抗がん剤が投与されつづけ、吐き気や頭髪が抜け落ちるなどの副作用に苦しんだ。一時は「このまま死ぬかもしれない」と最悪の事態も脳裏をよぎったが、再びマウンドに上がれる日を信じて、鉄アレイを病室に持ち込んでトレーニングを続けた。

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