【どうする家康】史実とあまりに違う瀬名の描き方 「岡崎クーデーター」も難点が

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築山殿もクーデターに関与していた

 ただ、岡崎家臣団のあいだに広がった対武田氏主戦論への不安が、ドラマで描かれたように、信康と築山殿を殺害しようとする方向に進んだとは考えにくい。

 たしかに、江戸初期に書かれた『三河物語』には、このクーデターが岡崎城主の信康を討ち取ろうとしたものだったと記されている。だが、これは著者の大久保忠教が、家康の身内の関与を否定するためにそう記したと考えられる。本多隆成氏の「信康を擁した新徳川家を築こうとしたのである」(『徳川家康の決断』)という見解が妥当だと見られる。

 また、柴裕之氏は「徳川領国の行く末に対する不安が、奥三河の不安定な政情と相まって、前線でなく後衛にあった岡崎城に詰める徳川家中の間に大きくなっていき、やがて、家康と不仲であった築山殿をも巻き込んだ事件へと展開していったのであろう」(『徳川家康』)と書く。事実、『松平記』には、築山殿が大岡弥四郎事件に関与したように記載されている。

 そして現在の研究動向を象徴するのが、本多氏の「家康と不仲であった築山殿には、武田方からみれば付け入る隙があったのだろう」(同前)、黒田氏の「信康家臣団中枢に謀反をはたらきかけたのは、築山殿であった可能性が高い。築山殿が武田家に内通し、謀反事件を画策したことは、おそらく事実と思われる」という見解である。

 ところが『どうする家康』では、大岡弥四郎事件はまったく違う描き方をされていた。大岡(毎熊克哉)ら首謀者は、夜中に信康や築山殿の寝室を襲うのだが、企ては山田八蔵(米本学仁)が事前に密告していた。このため、彼らの寝室では、浜松から駆けつけた重臣たちが待ち構えており、とくに築山殿 と娘の亀(當真あみ)は家臣と入れ替わっていて、『水戸黄門』さながらの激しい殺陣の末、大岡らは取り押さえられる、という展開だった。

 信康と築山殿は、このクーデターで命をねらわれたのか。それはクーデターの性質を考えるうえで非常に重要な要素である。ところが『どうする家康』では、築山殿はクーデターに関係していた、といういまの研究動向はお構いなしに、彼女たちも命をねらわれたことにしている。これは、近く描かれる築山殿の死をセンチメンタルに彩るための伏線ではないだろうか。

築山殿は夫の家康と不仲だった

 信康の周囲に仕える岡崎家臣団のあいだに、信長と組んでいても徳川家は尻すぼみで、むしろ武田に組したほうが領国を守れる、と考えた人たちがいたのはまちがいない。そして築山殿も、こういう家臣たちとなにかしらの手を結んでいたと考えられている。彼女の選択の背景には、家康を裏切ってでも武田の手を借りたほうが、息子である信康の領国を守ることにつながるという判断があったに違いない。そして、そう判断できるのは、夫である家康と不仲だからである。

 ところが、『どうする家康』では、家康と築山殿は一貫して仲睦まじく描いている。

家康が岡崎を居城にしていたときから、築山殿は城から離れた築山に別居させられ、家康が浜松に移る際にも岡崎の築山に留め置かれた。これは夫婦が不仲だったからだとしか考えられない。だが、ドラマの家康は常に、築山殿と離れているのを寂しがり、本人にも浜松に来るように誘うが、新婚間もない信康らを見守らなければならないからと、断られている。戦国大名の正室をどこに住まわせるか。それは正室が決めることではなく、夫である大名が決めることだったのはいうまでもない。

 家康と築山殿が不仲では、大河ドラマが盛り上がらないし、妻子の命を奪うという家康の苦渋の決断と彼らの死をセンチメンタルに描けない。それはわかるが、だからといって、そのために最新の研究動向に目を背けるとしたら、歴史ドラマとしては本末転倒だと思うのだが。

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