岸田首相のウクライナ入りで思い出す… 「夜行列車」で移動した大物政治家たち

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 ロシアのウクライナ侵攻後、各国の首脳は首都・キーウに入ってゼレンスキー大統領と会談してきた。岸田文雄首相はウクライナ支援を表明しながらも、ウクライナ現地に足を運ぶことはなかった。

 3月21日、岸田文雄首相はようやくウクライナに入国。岸田首相はキーウ市やブチャ市などの被災状況を視察するとともに犠牲者や戦死者を慰霊した。

 岸田首相がウクライナ入りした行程は安全上の理由から公表されていないが、事後に新聞・テレビなどの報道機関によってほぼ特定されている。岸田首相は、アメリカのバイデン大統領が2月20日にウクライナ訪問した行程に倣い、国境に近いポーランドのプシェミシルから夜行列車に乗ったとされている。

 近年、首相や大物政治家が夜行列車に乗って移動することはない。しかし、それは新幹線や航空機という移動手段がある現代だからにほからならない。移動手段が限られていた戦前期は、首相や大物政治家といえども当たり前のように夜行列車で移動していた。

 例えば、平民宰相として絶大な人気を誇っていた原敬は1921年に東京駅で暗殺されるが、その日は東京駅から夜行列車に乗車して大阪へと向かう予定になっていた。翌日には、自身が総裁を務める立憲政友会の集会が開かれることになっていたからだ。

 原同様に、庶民に絶大な人気を誇っていた大隈重信も夜行列車で過酷な移動をしている。第一次世界大戦中の1914年、大隈は二度目の首相に就任。そして、衆院選に臨む。

 大隈自身は貴族院議員なので衆院選に立候補していないが、それでも自身が率いる立憲政友会の議席数を増やす必要があった。当時、大隈は77歳。しかも外務大臣時代に片足を損傷していた。

 義肢かつ高齢を物ともせず、わずか5日間で大隈は約1100キロメートルも鉄道で移動し、各地で選挙演説をこなした。もちろん、夜行列車にも乗車している。

 大隈が選挙演説で訪問したのは東京・大阪・金沢・名古屋・横浜という大都市だけだったが、駅に停車している数分間に駅ホームに集まった支持者たちに対して演説を繰り返した。駅停車中の演説は、車窓演説と呼ばれて語り継がれている。

寝台なしの夜行列車もあった

 夜行列車といえば、横臥して寝ることができる寝台車を思い浮かべる人が多いだろう。しかし、夜行列車は必ずしも寝台車とは限らない。日本最初の寝台車は、1900年に山陽鉄道(現・JR山陽本線)が導入したといわれている。

 山陽鉄道が寝台車を登場させる以前から夜行列車は運転されていた。例えば、東海道本線の新橋駅―神戸駅間が全通した1889年には、同区間を通しで走る列車があった。当時の新橋駅―神戸駅間の所要時間は約20時間。同列車は夜行を意識したものではないが、全区間を通しで走ると必然的に夜行列車になった。

 こうした夜行列車は、通常の座席しかない。リクライニングシートのように背もたれを倒せる仕様にもなっていない。だから、背もたれが垂直に伸びる硬い座席で寝ることになる。この状態で熟睡することはできない。そのため、政治家たちは寝台車の導入が進んでいくにつれて寝台車を使うようになっていく。

 しかし、一般人にとって寝台車は高嶺の花だった。そのため、寝台車が普及した後も寝台車を連結しない夜行列車は頻繁に運行されていた。それは東海道新幹線や東名高速道路などが整備された高度経済成長期以降も変わらなかった。

 東海道本線を走る夜行列車は、時代の変化から運行区間を東京駅―大垣駅間に短縮されるなど紆余曲折を経ている。同区間を走る列車は大垣夜行と呼ばれ、1996年からはムーンライトながらとの名称で親しまれた。

 ムーンライトながらは高い人気を誇り、2009年に惜しまれつつ定期運行を終了。その後も臨時列車として運行を継続していたが、コロナ禍で運行を休止。復活しないまま2021年のダイヤ改正でひっそりと姿を消した。

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