【どうする家康】溝端淳平演じる闇落ちの悪役「今川氏真」は、滅亡したのになぜ生きながらえたのか

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信玄と家康に攻められて

 今川氏はもともと甲斐国(山梨県)の武田信玄、相模国(神奈川県)の北条氏康と同盟関係にあった。ところが永禄8年(1565)、信玄は信長と同盟を結んでしまう。また、その直前に武田家で勃発した騒動も、今川氏真を追い詰めることになった。今川氏との同盟に重きを置く信玄の嫡男の義信と、義信派の家臣らによるクーデターが発覚。義信派の家臣の多くが処刑され、義信も幽閉されたのちに死去したのだ。

 氏真が武田氏は信用できないと思うのも無理はない。事実、武田氏と敵対関係にあった上杉謙信との同盟交渉をはじめたが、それは逆に、信玄が駿河を攻める絶好の口実になってしまった。

 こうして永禄11年(1568)12月、信玄は今川氏との同盟を破棄して駿河に侵攻。同時に家康も遠江に攻め入っている。信玄の行動は、どうやら事前に信長の了解を得ていて、家康とのあいだでも、同時に今川領に攻め入る密約を結んでいたようだ。

 信玄は早くも12月13日に今川氏の駿府館を落城させ、氏真は懸川(のちの掛川)城の朝比奈泰朝のもとに落ちていった。もっとも、その後は今川氏との同盟関係を破棄していない北条氏の反撃もあり、信玄は駿河から撤退する。だが、家康は順調に遠江を攻略し、翌永禄12年(1569)1月17日、家康自身も兵を率いて懸川城を取り囲んだ。

戦国大名としての今川氏の滅亡

 ただし、そこからは北条氏が氏真に援軍を送ったため、家康による攻城戦は一進一退の攻防となった。らちがあかないので家康は和睦の道を探る。

 その結果、5月15日、氏真が和睦を受け入れて懸川城を明け渡し、かつて家康も事実上臣従した戦国大名としての今川氏は、ここに滅亡するのである。

 もっとも、氏真は正妻の実家である北条氏から、相模国早川に屋敷を宛がわれ、駿河国をふたたび領有することを目指すのだが、元亀2年(1571)、北条氏康が死去すると、あとを継いだ氏政は武田氏との同盟関係を再構築。このため翌年以降、氏真は早川を離れて家康を頼ることになった。

 これから遠江の支配を盤石にし、さらには駿河を攻略しようとしている家康にとって、かつての領主を抱えることにはメリットがある。こうして氏真は家康の家臣となり、かつての事実上の主従関係は逆転したのだが、それは氏真にとって、また今川家にとっても、結果的に幸福な選択だったのではないだろうか。

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