【どうする家康】溝端淳平演じる闇落ちの悪役「今川氏真」は、滅亡したのになぜ生きながらえたのか

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悠々自適の生活

 その後の氏真は、諸史料によると浜松に滞在したのち、天正3年(1575)に上洛し、かつて駿府で行われた和歌の会に参加した公家たちと再会している。また、『信長公記』によると、相国寺では信長と面会し、信長に所望されて蹴鞠を披露している。その間、数々の和歌も詠んでいる。

 そのあたりは足利一門の血統で、京都の公家や文化人も数多く身を寄せた名門、今川氏の面目躍如ではある。しかし、一方でこうも言えはしないか。氏真は元来が公家に近い趣味人で、血で血を洗う戦国大名の争いには向かなかった。戦国大名につきもののプライドが希薄だったから、事実上の家臣だった家康を臆面もなく頼った――。

 それができたから、氏真は生きながらえたのである。

 その後、氏真は天正3年5月の長篠の戦いののち、武田勝頼との戦いに参戦し、諏訪原城(静岡県島田市)を攻撃している。そして、落城した諏訪原城が家康によって牧野城と名をあらためられたのち、城主になった。ところが、なぜか1年で解任されて浜松に戻っている。そのころ剃髪して宗誾と名乗り、以後は武将として働くことなく、悠々自適の生活を送ったようだ。

実現した長寿と子孫の繁栄

 京都に移り住んで、旧知の公家らと往来しながら、和歌の会や連歌の会に頻繁に顔を出し、生涯に詠んだ和歌は1,600首以上におよぶ。

 結果として、自身も子孫も安泰だった。氏真は慶長17年(1612)、すでに大御所となって氏真の故郷、駿府に城を構えていた家康と対面。500石の所領を安堵された。この世を去ったのは、家康が亡くなる3カ月余り前の慶長19年(1615)12月28日。享年77で、家康より2年以上長生きだった。

 一方、子孫だが、慶長3年(1598)、次男の高久が家康の嫡男の秀忠に出仕。また、早世した長男の遺児の直房(範英)も幕府に出仕し、以後、諸大名に礼儀作法を教える高家旗本として存在感を示した。石高も高久の時代に1000石に加増されている。ちなみに高家といえば、忠臣蔵で知られる吉良上野介がよく知られる。

 こうして、今川家は明治維新を迎えるまで存続した。

 たとえば、かつて氏真を苦しめた武田氏とくらべるとどうだろう。武田勝頼は信長の軍勢と徹底的に戦った末、嫡男や正室とともに自害した。戦国大名としてのプライドは、妻子をともにしたむごすぎる最期につながり、武田氏は名実ともに滅亡した。

 対照的に、プライドを捨てることができた今川氏真は、当時としては異例の長寿をまっとうし、子孫を繁栄させることもできたのである。

香原斗志(かはら・とし)
歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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