還暦を越えて保育士に、漁師やタクシー運転手も 元プロ野球選手が語る“意外過ぎる”第二の人生に迫る

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専門学校で皆勤賞

 19年、同アカデミーから、子どもと関わる時間を減らす方針が示され退職を決断。当時61歳。隠居するには早い。高沢は子どもと関わる仕事がしたいと思った。

「昔から子どもと遊ぶのが好きなんです。選手の時もコーチの子どもを一晩預かって、翌日まで一緒に遊んだことがありました。近所の子どももよく遊びにきていましたね。子どもとのそういう時間が好きだし、自分も元気になれるんです」

 保育士になるべく、一念発起して専門学校に入学した。自分の孫ぐらいの若者と一緒に、2年間勉強に励んだ。皆勤賞で、ピアノも真剣に練習した。

「♪せんせい おはよう みなさん おはよう♪という『おはようのうた』や『チューリップ』、『こいのぼり』などたくさん伴奏できます。うまくなりたくて自主的にピアノ教室にも通いました」

 無事保育士資格を取得し、昨年春から、どろんこ会の保育園で働き始めた。子どもの主体性を大切にする保育方針に共感したという。

「遊んでいる時の笑顔を見るのが楽しいです。ただ、安全にはいつも注意して、保育スタッフが1カ所に固まらないように、空きスペースができないように意識して動いています。野球の守備で空きスペースができないように動いていましたから、その勘は今の仕事に少し生きていますね」

 また良いところを伸ばし、褒める接し方も、今後役立てるつもりだ。

 高沢によれば、元野球選手の中には保育士の適性がある人がいるという。

「選手でも子どもが好きな人がいますからね。体力もあるし、どんどん来てほしいなと思います」

「頭が真っ白に」

 漁師になった元選手もいる。中日に8年間在籍したキャッチャーの清水清人(43)だ。島根県大田市の邇摩(にま)高校出身。高校時代の通算打率は5割を超え、打った本塁打は40本。97年にドラフト8位指名を受けて中日に入団した。同期には川上憲伸や井端弘和らがいる。

 その頃、中日には中村武志という正捕手がいたが、清水は当時の星野仙一監督から目をかけられた。

「入団3年目の頃、オールスターや日米野球のブルペンキャッチャーとして帯同するように星野さんから指示されたんです。勉強してこいという監督の親心だったと思います。その際、長嶋(茂雄)さんを紹介されて“頑張れよ~”と言われ、握手してもらったのはよく覚えています」

 それからまもない01年、ヤクルト戦で初めて1軍のマスクを被った。1軍に上がってわずか2日目のスタメン。しかもピッチャーはエース・山本昌。

「頭が真っ白です。サインも覚え切れていない状態でリードしたんですが、相手に12点も許してしまって」

 9回まで出場した後、星野監督に雷を落とされた。

「俺がもう10歳若かったら、お前の顔はないぞ!」

 それぐらい殴られてもおかしくないヒドいリードだと言いたかったのだ。

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