松本零士さんが「鉄道」に残した功績をたどる 「銀河鉄道999」のDNAは日本各地に

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「宇宙戦艦ヤマト」『銀河鉄道999』などの人気作品を手掛けたことで知られる漫画家の松本零士さんが、2月13日に死去した。その死を悼む声はマンガ・アニメ界などから聞こえてくるが、『銀河鉄道999』の作者ということもあり、鉄道業界からも同様の声が聞かれる。

「北九州モノレールは、松本先生がデザインしてくださったラッピング車両を2010年3月から運行を開始しています。初代のラッピング車両は検査のためにラッピングを剥がさなければならず、2016年11月に運行を終了しました。しかし、2代目となるラッピング車両が2017年4月にデビューしています。2代目のラッピング車両は現在も現役で走っています」と話すのは北九州モノレールを運行する北九州高速鉄道営業課の担当者だ。

 福岡県北九州市は1963年に小倉市・門司市・八幡市・戸畑市・若松市の5市が合併して誕生。同年には、県都・福岡市よりも早く政令指定都市へと移行した。当時の北九州市は基幹産業である石炭や製鉄が斜陽化していたため、5市合併は市勢を回復させるための起爆剤として期待された。

 しかし、その後も産業構造の転換が進まず、人口も経済も福岡市に追い抜かれていった。北九州市の玄関口となっていた小倉駅は、西日本鉄道が運行する路面電車が行き交っていた。その路面電車も、時代とともに縮小を迫られていく。1980年に魚町―北方を走る北方線の全線が廃止されたのを皮切りに、1985年には北九州線の門司―砂津間と戸畑線・枝光線の全線が廃止された。

 市民の足となっていた路面電車と代替するように、北九州モノレールは1985年に小倉(現・平和通)駅―企救丘駅間で開業する。当時、モノレールは周辺住民の反対から小倉駅まで乗り入れができず、国鉄とモノレールの小倉駅は離れた場所にあった。

 それを理由に利用者の低迷を招くが、1998年に小倉駅が改築されるのに伴ってモノレールはJRの小倉駅と直結。新しき小倉駅は立体道路制度を活用しているので、モノレールの駅は小倉駅の中に開設された。そのため、モノレールは小倉駅から飛び出すように発車する。

「モノレールの小倉駅は、松本先生のマンガの世界観を反映したかのような近未来的な構造です。そうした事情や松本先生が北九州で過ごしたことから、ラッピング車両のデザインをお願いしました。2代目のラッピング車両が運行を開始するときには、一日駅長をお願いしています」(北九州高速鉄道営業課の担当者)

 松本さんは福岡県久留米市の出身だが、戦後は小倉に居住していた。そうした縁から北九州市との縁は深く、2012年に開館した北九州市漫画ミュージアムでも名誉館長に就任している。

「小倉駅の南北自由通路には、北九州市が漫画の街であることをPRするレリーフが設置されています。このレリーフの前には、『銀河鉄道999』に登場する車掌の像が建立されています。これは2代目のラッピング車両がデビューする際に、北九州モノレールと北九州市漫画ミュージアム、そして松本先生が相談して設置しました」(北九州高速鉄道営業課の担当者)

自宅兼の事務所の「待合室」に見る鉄道への関心

 筆者は松本作品の熱心な読者ではなく、幼少期にマンガやアニメを見て過ごした一般読者レベルだが、不思議なことに松本さんを取材する機会は何回かあった。

 最初にお会いしたのは、20年以上前にまで遡る。行政誌の取材で大泉学園の自宅兼事務所へ窺い、「未来の都市は、どうなるか?」といったテーマで話を聞いた。テーマの根底には、当時の地方自治体がバリアフリー化を急務として、階段などの段差を解消する取り組みを加速させていたことがある。

 松本さんは骨折して松葉杖での歩行を余儀なくされた体験を踏まえながら、人間よりも自動車を優先する思想で建設された歩道橋を批判。都市は人間が主体になっていなければならないと主張した。

 そのときのインタビュー内容もさることながら、筆者の印象に強く残ったのは自宅兼事務所の玄関脇にあった待合スペースだった。こぢんまりとした来客用のスペースだったが、そこは列車内のような座席があり、そのほかの調度品類も鉄道車内を再現したような雰囲気になっていた。

 松本さんがマニアというほどの鉄道知識があったかどうかは定かではないが、この待合スペースへのこだわりから考えれば鉄道に関心が高かったことは間違いない。

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