「死の産科」の妊産婦死亡率を劇的に変えた医師の悲しい人生――無理解な同業者の非情

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 年頭の記者会見で岸田総理が「異次元の少子化対策に挑戦する」と声を上げたが、それに先立って今年の4月から出産一時金が42万円から50万円に上がる。

「お産のリスク」を考えると政策としてはまだまだ足りないという声もある一方で、出産が命懸けだと言うのは大げさだという反発もあるようだ。

 確かに、現代において医療と公衆衛生の発達によって出産で亡くなるリスクは大幅に低下している。2020年の「人口統計資料集」によると、日本の10万人あたりの妊産婦の死亡数は2.7人、パーセンテージで言えば0.0027%だが、そこに至るまでの道は長かった。

 たとえば1800年代半ばのヨーロッパには死亡率が20%近くにもなる産科が存在していた。ヨーロッパですらこの数字だから、世界中の女性たちにとって、出産は今よりもっと「命懸け」だったのは間違いない。

 この改善は、科学者、医学者の努力のたまものなのは言うまでもないが、なかでもエポックメーキングだった出来事がある。

 出産と医療の歴史を変えたのは一人の医者の発見だった。しかし生前、彼の発見と画期的な提案は相手にされず、不遇のまま死を遂げてしまった――そのドラマチックなストーリーをデンマークの若き分子生物学者、ニコラス・ブレンボー氏の著書『寿命ハック―死なない細胞、老いない身体―』から抜粋してみよう。

 (以下、同書より抜粋して引用)

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死亡率の違う二つの病院

 1847年、ドイツ系ハンガリー人の医師イグナーツ・ゼンメルヴァイスは、良心の呵責に苛まれながら、ウィーンの街を重い足取りで歩いていた。

 彼は産科医で、ウィーン総合病院の産科病棟の責任者だった。この病院は二つの産科を開いて、街の貧しい女性たちに産前産後のケアを無料で提供していた。無料の見返りとして第1産科では医師を、第2産科では助産婦を養成していた。

 驚くことに、二つの産科では産婦の死亡率に大きな開きがあった。第2産科では4パーセントだったが、第1産科では10パーセントを超えていたのだ。原因は産褥熱(さんじょくねつ)と呼ばれる不可解な病気だった。ウィーンの貧しい女性たちはこの差をよく知っていて、出産が近づくと第2産科で出産させてほしいと医師に懇願した。若い医師の手にかかって死ぬよりはと、街路で産む者さえいた。

 ゼンメルヴァイスはこの状況を憂慮し、あらゆる手を尽くして原因を突き止めようとした。二つの産科での手順と器具をすべて同じにしたが死亡率は変わらなかった。

 ある日、友人で同僚のヤコブ・コレチュカが遺体解剖の指導中に、誤って学生のメスで指を傷つけられた。傷のせいでコレチュカはひどい感染症にかかり、ほどなくして亡くなった。コレチュカの検死を行なった医師たちは、産褥熱で亡くなった女性たちとの類似に気づいた。この時、ゼンメルヴァイスはあることに思い当たった。

なにが産婦を死に至らせたのか

 当時、医師が解剖を行なった直後に出産に立ち会うのは当たり前のことだった。死体を切り開いた直後に出産を介助していたのだ。彼は、そこに原因があると確信した。医師が「死体粒子」を遺体から妊婦に移したと考えたのだ。

 彼は熟考を重ねた後に、次亜塩素酸カルシウム(今日、プールの消毒に使われている「塩素」)で手を洗えばその粒子を除去できると考えた。早速、病院の医師全員に、出産する女性に近づく前に手洗いをすることを義務づけた。

 この新たな対策が突破口となり、病院の死亡率は急激に下がった。手洗いを導入する直前の4月には産婦の死亡率は18.7パーセントだったが、6月にはわずか2.2パーセントになった。そして7月には1.2パーセントにまで下がった。

目覚ましい発見も相手にされず……

 ゼンメルヴァイスはこの発見を医学界に報告した。重大な発見であり、無数の人命を救う可能性があったが、驚くことに、医学界の反応は冷淡だった。中には、「我々が不潔だとでも言うのか」とひどく腹を立てる医師たちや、ゼンメルヴァイスの見解は当時の優れた科学理論に合致しない、と批判する者もいた。

 批判したひとりがデンマークの著名な産科医カール・レヴィである。彼もコペンハーゲンでの産婦の死亡率の高さに苦慮していたが、「目に見えないほど小さなものがこれほど深刻な病気を引き起こすはずがない」と書いている。ウィーンでの死亡率の劇的な低下も、彼に言わせれば偶然の一致にすぎなかった。

 哀れなゼンメルヴァイスは、何年にもわたって四方八方から浴びせられる批判と闘った。医学界の重鎮たちに手紙を書き続けたが無駄だった。

 やがて批判への怒りが高じ、彼は敵対者たちを「人殺し」と非難し、誰に対しても産婦の死亡率と手洗いのことばかり話すようになった。

 時がたつにつれ、彼の精神状態は悪化していった。1861年には重いうつ病になり、その後、神経衰弱を頻繁に起こすようになった。精神病院に入院させられ、そこで監視員になぐられた傷がもとで感染症を起こし、皮肉にも敗血症のために47歳で亡くなった。

ようやく信じられた微生物の影響

 ゼンメルヴァイスがこの世を去ったころ、喜ぶべきことに、微生物学を飛躍的に進歩させた人々がいた。ヨーロッパの「三大国」(フランス、イギリス、ドイツ)出身の3人の科学者の貢献によって、微生物が病気を引き起こすという学説が確立したのだ。まず、フランスのルイ・パスツールが、当時の通説に反して、微生物は何もないところから自然発生するのではないことを証明した。また彼は、微生物がビールやワインの発酵や食物の腐敗の原因であることを発見した。

 パスツールは、食物の腐敗は三つの方法で防げることを実証した。高温にする(加熱殺菌)、濾過(ろか)する、薬液を使う、である。彼の発見は、イギリスの外科医ジョセフ・リスターにヒントを与えた。当時は、手術後に患者が感染症にかかることが多かった。リスターは薬液を使えばそれを防げるのではないかと考え、手術器具や傷口を消毒する方法を開発した。続いて、ドイツの科学者ロベルト・コッホが実験室で細菌を培養する方法を考案し、ついに特定の細菌と、肺炎やコレラや炭疽病(たんそびょう)といった特定の病気の発症を結びつけられるようになった。

 もちろん、こうした進歩は絶えず批判の嵐にさらされたが、やがて反論の余地がないほど証拠が集まり、最も頑固な批判者さえ負けを認めざるを得なくなった。

 何もないところから細菌が生まれるという考えや、医師が手を洗わずに遺体と患者の間を行き来していたことは、現代に生きるわたしたちには理解し難い。しかし、新しい考えに痛烈な批判はつきものなのだ。

 今日では、微生物と闘うための武器が大量にある。抗生物質はかつてわたしたちを苦しめた細菌の大半を殺すことができる。また、ワクチンは死や障害をもたらす病気を未然に防げる。さらには、衛生対策、感染経路、滅菌に関する知識も山ほどある。

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 目に見えない小さな微生物が、多くの産婦の命を奪っていたこと、そしてその解決策が「手を洗う」といった簡単な方法だったことは、なんともあっけないように感じられるかもしれない。

 しかし、まだ誰も理解できなかった「死因」の秘密を解き明かし、多くの命を救った医師、ゼンメルヴァイスの偉大な実績はもっと知られてもいいだろう。

『寿命ハック―死なない細胞、老いない身体―』より一部抜粋・再構成。

デイリー新潮編集部