ダイアモンド☆ユカイが語る「鮎川誠さん」秘話 YMOが導いたメジャーでの成功
人生を変えた義父の言葉「なんで東京で勝負しないんだ」
鮎川さんの話で強く印象に残っているのは、2019年に東スポ連載の取材で聞いたYMOとの出会いについてだね。
ロック好きの記者と「日本に全く無かったロックという音楽は、どのように日本に入って浸透し、定着したのか。当時を知る人に話を聞き、記録しながら解き明かす」というミッションを設定して、色んなミュージシャンに話を聞かせてもらった。
その時の取材でも、鮎川さんはストーンズの初期アルバムについて熱く語りつつ、バンド結成やYMOのアルバムに参加した経緯、細野晴臣さんがシナロケのアルバムをプロデュースした時のことを話してくれた。
まず、サンハウス時代は福岡にいることにこだわり、あえて上京しなかった鮎川さんは、なぜサンハウス解散後に東京に出たのか? 結果的にこの方針変更が鮎川さんの飛躍につながったんだけど、その理由は、妻・シーナさん(2015年没)のお父さんから「まだ未練があるんじゃないか? 福岡で人気があったって、日本じゃ誰も知らない。なんで東京で勝負しないんだ。一回勝負して、ダメなら音楽への未練を断ち切って仕事を手伝ってくれ」と東京行きを強く勧められ、背中を押されたからだった。
鮎川さんが単身上京すると、1週間後にはシーナさんも上京。当時は「俺は夫婦でロックはかっこ悪いと思いよった」とシーナさんとバンドを組むなんて全く思ってなかったそう。しかし、鮎川さんが他のシンガーに提供した曲を歌うシーナさんを見て、「俺はこういうボーカルと組みたい」と直感し、シーナさんをボーカルにしたバンドを結成することに。1978年の話だね。ちなみに、その時シーナさんが歌ったのが後のデビュー曲「涙のハイウェイ」だった。
飛躍のきっかけは「高橋幸宏さん」との出会い
78年10月にシングル「涙のハイウェイ」でデビューし、その直後の11月、エルビス・コステロ日本公演の前座を務めた。これを見ていたのがYMOの1stアルバムを発売したばかりの高橋幸宏さん。
シーナさんの歌を気に入った幸宏さんが細野晴臣さんに紹介して、鮎川さんはYMOのライブに呼ばれた。この時演奏したのがザ・ビートルズの「デイ・トリッパー」。後にYMOの2枚目のアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」(1979年9月発売)にも収録され、鮎川さんがギターを弾いてるんだけど、実は鮎川さんにとっては、高校時代に初めてバンドで演奏した曲でもあったんだ。
鮎川さんたちはエルボンレコードという会社からシングルとデビューアルバム(79年3月発売)を出していたんだけど、細野さんに「アルファレコードでも出そうよ」と誘われてレコード会社を移籍。そして細野さんプロデュースで作られたのが名作「真空パック」(79年10月発売)だ。
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