明治期にはタピオカも運んでいた? 再び脚光をあびる「鉄道貨物」の150年

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 昨年は鉄道開業150年という記念すべき節目の年だった。しかし、それは旅客営業の開始という鉄道の一側面に過ぎない。鉄道には主に旅客と貨物の2つがあり、鉄道貨物は旅客営業開始の翌年の1873年から開始された。つまり、今年は鉄道貨物150年の節目にあたる。

 長らく日本国内の鉄道は旅客が主流で、貨物は日の目を見なかった。その理由は、日本全国に道路が行き渡り、小回りのきくトラック輸送の方が事業者にとっても利用者にとっても便利だったからにほかならない。その概念も一周回って過去になりつつある。

 150年にも及ぶ鉄道史は、貨物列車の存在を抜きにして語ることはできない。営業開始こそ旅客に先を越されたが、鉄道貨物のスタートと同時に、鉄道貨物のルールともいえる31条からなる鉄道貨物運送規則も制定された。

 旅客と同様に、貨物にも“運賃”が発生する。鉄道貨物運送規則には輸送品目ごとに運賃が決められていたが、その運賃表には建築建材や日用雑貨、工芸品に混じり食料品などの運賃も記入されていた。興味深いのは、食料品に「タピオーカ(=タピオカ)」や「レモナード(=レモネード)」といった文字が見られることだ。

 文明開化によって生活様式全般が西洋化していたから、食事に関しても洋食化が進んでいたと推測することもできる。しかし、鉄道貨物運送規則は本場・イギリスのそれを参考にして作成したとも言われている。

 もしかしたら、鉄道貨物運送規則の作成担当者が「タピオーカ」や「レモナード」を理解しておらず、そのまま書き写しただけなのかもしれない。このあたりの解明は進んでいない。

複雑な料金事情

 旅客は、人が発駅から乗車して着駅で下車することで一連の作業は完結する。乗り越しが発生することもあるが、基本的に乗客が乗車前にきっぷを購入することで運賃の支払いを済ませる。旅客のスキームは、わりと明快だ。

 対して、貨物は発送主が鉄道事業者に直接的に持ち込むことは稀で、一般的には発送主が物流事業者に集荷と配送を依頼する。そして、荷物を受け取った物流事業者が発駅で貨物列車に積み込む。着駅では貨物列車から荷物を受け取り、それを戸別に送り届ける。そのスタイルは150年の歳月を経ても大きく変化していない。

 ただ、鉄道貨物が開始された当初、物流事業者を小運送、鉄道貨物や海運など輸送インフラを大運送と呼び分けていた。

 当時は発送主ではなく、受け取り側が運賃を支払う方式が採用されていた。今で言うところの着払いが基本だったわけだが、大運送の鉄道貨物は前払いで料金を徴収していた。そのため、小運送業者が鉄道貨物の運賃を一時的に立て替えなければならず、複雑な仕組みゆえに料金の精算業務だけを専門にする計算会社が介在していた。

 大運送である鉄道貨物が開始された1873年は、三井組(後の三井財閥)が小運送業を独占していた。独占と表現すると利権的な印象を与えかねないが、実態は少し異なる。

 鉄道開業時から貨物の運行を考えていた鉄道当局は、政府の仕事を引き受けていて声をかけやすい三井組に依頼したに過ぎない。複雑な仕組みや鉄道貨物ゆえの大量輸送に対応できる巨大組織であることが求められたからだ。その条件を満たしていた組織は少ない。そのひとつが、三井組だったに過ぎない。

 そもそも鉄道は新橋(後の汐留)駅―横浜(現・桜木町)駅間でしか運行されていなかった。当時の貨物列車は、新橋駅発と横浜駅発がそれぞれ一日一便の運行で、新橋駅・神奈川駅(現在は廃止)・横浜駅の3駅に荷物取扱場所が設けられている。

 こうした規模からも窺えるように、三井組にとって鉄道貨物における小運送業務は売上的に大きいものではなかった。それは三井組が政府に提出した書類からも窺える。

 鉄道貨物における三井組の小運送業務は赤字で、翌年から三井組は大運送の取り分から5%の手数料を得ることを政府に約束させた。

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