初めて2時間50分の壁を破った女性・ゴーマン美智子 マラソンを始めた“意外”なきっかけは?(小林信也)

  • ブックマーク

Advertisement

 女性がマラソンを走る? ほぼすべての人が「まさか」と思った。1970年代半ばまでそれが世界の常識だった。五輪の歴史をたどっても、女子陸上で最も長い距離は68年メキシコ大会まで800メートルだった。その800も途中5大会は実施されていない。28年アムステルダム大会で人見絹枝が銀メダルを獲得したが、ゴール後人見も含め半数以上が倒れた衝撃は大きかった。「女性に長距離は不向き」と判断された。

 扉を開いたのは、性別を隠し、男性に紛れてレースに出た複数の女性たちだ。60年代から70年にかけて、彼女たちは記録こそ3時間以上だが女性にも完走できることを証明した。

 初めて女性の参加を認めたのは70年ニューヨークシティマラソン。1897年以来の伝統を誇るボストンマラソンも72年、女性に門戸を開いた。74年、初めて女性で2時間50分の壁を破って優勝したのがアメリカに住む日本人女性・ゴーマン美智子(旧姓・諏訪)だった。

 美智子は1935年、中国の青島で生まれた。44年まで青島で育ち、外科医だった父が出征した直後、日本に引き揚げた。

 福島県郡山市の短大に通うころ、父が病気で亡くなり、生活は暗転する。収入が途絶え、家族はかつて住んだ東京に戻った。美智子は短大をやめて働いた。

 貿易会社勤務を経て米軍基地に勤め、空いた時間にベビーシッターをしていた時、一筋の光明が差した。帰国する大佐夫妻から「一緒に渡米して息子の面倒をみてくれないか」と誘われたのだ。1週間悩んだ末、美智子はかねて憧れていた海外への雄飛を決意した。

 28歳で日本を離れた日、日記にこう記している(『走れ!ミキ』文藝春秋刊)。

〈永い準備期間に覚悟を決めてはいたものの、やはり出国はつらかった。ドラが鳴って、船が始(ママ)めてゴトリと岸壁を離れた時はむしろ気がはずんだのに、徐々に船体をかわして出港するにつれ次第に心残りがつのって来てどうしようもなかった。汽笛の音は悲しい〉

壁に貼られたグラフ

 渡米2年目、ダンス・パーティーで会ったマイク・ゴーマンと結婚。彼の勧めでロサンゼルス・アスレティック・クラブに入会。これが美智子の運命を変える。

 クラブでは毎年10月、「オクトーバー・マラソン」が実施される。1カ月間に走った距離を競うレースに美智子は参加する。34歳になってまもない秋だった。長距離を走った経験はない。ペース配分という概念も知らなかった。

「走りたかったわけではない。小さくてもいいからトロフィーが欲しかった」

 と自伝で述懐している。

 試行錯誤しながら距離を伸ばしたが、爪が割れ、全身の筋肉が悲鳴を上げた。それでも壁に貼られたグラフに走行距離を書き込むため、走り続けた。参加者は約600人、女性はその1割弱。ノーマークだった美智子が2位に浮上、最後の週にはトップを行く女性参加者に1マイル(約1.6キロ)と迫った。そして終了直前、ライバルを捉え逆転優勝を飾った。走行距離は589マイル(約947キロ)だった。

 なぜそこまで勝利に執念を燃やしたのか? その一端は「クーリエ」に紹介された「ランナーズ・ワールド・マガジン」の記事に垣間見える。

〈結婚後まもなく、彼女は夫に、容姿に自信がないと打ち明けた。「私はこんなに背が小さくて恥ずかしい」。夫は、一緒にフィットネス・クラブに行ってトレーニングすることを提案した。(中略)ゴーマンはクロスカントリーレースを始めてから、勝つことは難しくないと発見した。より背の高い、より若い女子選手を抜き去ったのだから、彼女の身長、体重はもはや問題ではなくなっていた。「走ることで大きな自信を得ました。さとったのです。小さいことはデメリットではないって」〉

 身長153センチの美智子は74年ボストンマラソンで優勝。76年ニューヨークシティマラソンでも優勝。77年には両大会を同じ年に制覇する初の女性となった。

2ドル39セント

 美智子は肺ガンで5年間闘病の末、2015年9月19日、ワシントン州ベリンガムで他界した。80歳だった。

 訃報は娘ダニエル・ミカのブログで伝えられた。

〈1976年のニューヨークシティマラソンで優勝した時の自己最高記録2時間39分は家族の誇りでした。私はここ数年、母の看病を最優先し、スターバックスに2人でコーヒーを飲みにいくのが楽しみでした。そのガソリン代が、ちょうど1ガロン2ドル39セントでした〉

 その偶然を母子でほほ笑みあう光景が目に浮かんだ。

 ニューヨーク・タイムズが訃報を伝えたのは3年後、その年の大会直前だった。同紙は書いている。

〈1851年以降、ニューヨーク・タイムズの紙面に載る『お悔やみ欄』は白人で埋め尽くされてきた。これまで見逃してしまった素晴らしい業績を残した人物を加えたい〉

 そこにアメリカ社会に潜む差別や偏見がうかがえる。それこそが美智子が闘い続けてきた暗闇。美智子は走ることで女性の能力を世界中に証明した。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部等を経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。

週刊新潮 2023年1月26日号掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。