岡田彰布、張本勲、江本孟紀…プロ球界レジェンドが味わった“幻のセンバツ”という悲哀

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「あの子は化ける」

 第95回選抜高校野球の代表36校が1月27日に決定するが、過去には不祥事による出場辞退、推薦辞退で“幻のセンバツ”の悲哀を味わった球界のレジェンドたちもいる。【久保田龍雄/ライター】

 甲子園を目指して強豪校に転校したが、“大人の事情”で夢を断たれたのが、張本勲氏である。

 地元の名門・広島商に入学できず、野球では無名だった松本商(現・瀬戸内高)定時制に入学した張本氏は、昼間は学食でアルバイト、夜は授業の毎日で、練習する時間がほとんどなかった。

 チームも夏の予選1回戦で敗退し、「これではいかん」と、関西の強豪・浪華商(現・大体大浪商)、平安(現・龍谷大平安)への転校を熱望した。経済的な理由から家族は反対したが、野球部監督が「いっそ広島から出したらどうだ。あの子は化ける」とあと押ししてくれた結果、浪華商への転校が決まる。

 当時タクシーの運転手をしていた兄が、毎月の給料の半分にあたる1万円を送金してくれるのを頼りに大阪で下宿生活を始めた張本氏。甲子園出場の夢をはたすことが何よりの恩返しと信じ、ひたすら野球に打ち込んだ。

 だが、転校直後の9月に野球部は上級生部員のしごきが明るみになり、1年間の対外試合禁止処分を受けてしまう。「まだ3年の春と夏がある」と気持ちを切り替えた張本氏は、1957年9月、謹慎明けの新チームで4番センターとして公式戦初出場。場外に飛んだ打球が電柱の器具を直撃し、周囲が停電したという伝説の“停電ホームラン”をはじめ、練習試合を含む13試合で打率.560、11本塁打と打ちまくり、大阪大会Vに大きく貢献した。

“鉄拳制裁”問題で突然の休部に

 ところが、センバツ出場につながる近畿大会を前に、2年生部員の“鉄拳制裁”を指示したとして、突然休部を言い渡される。

「殴打事件のとき、私はその場にいなかったんです。当時の部長が私に話も聞かず、高野連に書類を出した」(週刊文春2009年3月26日号「私の履歴書」)。

 問題が大きくなる前に、スケープゴートをつくって、処分を免れようとした“大人たち”の犠牲になった形だ。

 その後、浪華商は近畿大会で4強入りし、翌58年のセンバツ代表校に選ばれたが、一般生徒の恐喝事件により、出場辞退に追い込まれた。

 一方、「春はダメだったが、最後の夏こそ」とラストチャンスに賭けていた張本氏は、5月に休部が解除されたものの、「解除後、3ヵ月は公式戦に出場できない」という高野連規約により、“最後の夢”も消えた。

 プロで首位打者7度などの偉業を達成したレジェンドは、「私はそれでも、この悔しさをエネルギーに変えて、プロ野球で生かせたが、高校時代の野球人生の挫折により、恵まれた素質をあたら散らしてしまったチームメイトは少なくない」(ホームラン1996年8月号掲載「遥か彼方の甲子園」日本スポーツ出版社)と回想している。

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