岡田彰布、張本勲、江本孟紀…プロ球界レジェンドが味わった“幻のセンバツ”という悲哀

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優勝候補から一転…

 センバツV候補のエース・4番だったにもかかわらず、大会目前に不祥事で辞退する羽目になったのが、高知商時代の江本孟紀氏である。

 1963年春、江本氏や浜村孝(元西鉄、巨人など)らの“黄金世代”が入学すると、当時の松田昇監督は2年後のセンバツVを目標に、下級生のときから使いつづけた。

 そして、3年計画の最終年、秋の新チーム結成直後に5敗ともたついた高知商だったが、9月下旬から怒涛の16連勝を記録し、四国大会でも今治西を7対3、高松商を8対4と力でねじ伏せて優勝。翌65年のセンバツに文句なしで選ばれた。

 ところが、3月6日になって、野球部員が暴力事件を起こしたことを理由に、出場辞退が決まる。当時の高知新聞によれば、事件は、2月21日午後6時30分ごろ、帰宅するためにバスに乗った他校の男子生徒が、高知商野球部員2人が座っていた最後部席の空いていたスペースに座ろうとしたことから、いざこざが起き、降車直後に腹を蹴られるなどの暴行を受けたという。男子生徒は腸破裂による腹膜炎を起こし、開腹手術を受ける大事となり、事件も明るみに。

 学校側は加害者の2人を無期停学、2ヵ月以上の休部処分にしたが、「学校が(県高野連に対応を任せて)事態を静観しているのが潔くない」と批判の声が上がると、「県民の誤解を招かぬよう、この際はっきりした態度を打ち出すべきだ」として、センバツを辞退した。

 優勝候補から一転、連帯責任で1年間の対外試合禁止処分を受け、卒業まで失意の日々を過ごした江本氏は、自著「野球バカは死なず」(文春新書)で、「そこから俺は変わった。人生、何が起こるかわからない。何が起きても怖くない……ある種の開き直りや、悪く言えばヒネた考え方をする性格になったようだ」と振り返っている。

阪神・岡田監督も憂き目に

 今季15年ぶりに阪神の監督に復帰した岡田彰布氏も、2年時のセンバツが推薦辞退という形で幻と消えている。

 1973年夏、1年生ながら北陽(現・関大北陽)の左翼手(打順は2番、または7番)として甲子園に出場した岡田氏は「あと4回も出場できると思っていた」という。

 新チームではエース・3番と投打の中心を務め、秋の近畿大会で東山、天理を下して4強入り。準決勝で優勝校の向陽に0対1と敗れたものの、夏春連続甲子園出場は当確だった。

 だが、推薦校に決まったわずか3日後の翌74年1月19日、応援部のしごき事件が発覚したことを受けて、推薦を辞退。2度目の甲子園は、野球部員とは直接関係のない事件で幻と消えた。

 高校最後の夏も大阪大会決勝で惜敗し、甲子園出場は1回限りで終わった岡田氏は、遠かった甲子園への道をしみじみと回顧するように、地区予選でプレーした日生球場を「僕らにとっては野球の聖地でした」(週刊現代2021年9月9日号「私の地図 あの場所に帰りたい」)と最も印象深い場所に挙げている。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮編集部

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