【どうする家康】なぜ元康は今川義元の人質に?第1話で描かれなかった知っておきたい史実

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尾張から駿府へ

 味方の人質になるはずが、敵の人質に。「どうする――」での元康はこの時期、信秀の跡継ぎである織田信長(岡田准一[42])によほど嫌な思いをさせられたのだろう。だから第1話の後半で「あれはケダモノじゃ。飢えた狼じゃ!」と怯えた。ちなみに信長は元康より9歳年上だ。

 もっとも、この時期元康と信長が実際に出会っていたという記録はない。半面、やり取りがあったとしても不思議ではない。2人の関係は「どうする――」の前半の大きな見どころになるのだろう。

 元康を人質にした信秀は広忠に対し、「自分の側につけ」と迫った。元康の命が取引の材料だった。しかし、広忠は骨のあるところを見せる。「恩ある義元は裏切れない」と断った。

 信秀は当てが外れたものの、元康を黙って帰すわけにもいかない。尾張国の熱田(現・名古屋市熱田区)や那古野(現・同中区)で軟禁した。

 それから2年後の1549年、元康は悲報に接する。広忠が24歳の若さで死んでしまった。暗殺だった。当主不在となってしまった家臣たちは狼狽した。

 家臣たちが頼ったのも義元だった。新しい当主の元康を信秀から奪還して欲しかった。義元としても9代目の松平宗家となった元康が、敵の信秀のところにいるのは痛い。判断能力がまだない元康が、どう利用されるか分からないからだ。

 義元は兵を出し、信秀から元康を救い出した。広忠の死から約8カ月後のことである。けれど元康は岡崎城には戻れなかった。今度は義元によって駿府に連れて行かれ、やはり人質生活に入る。

 元康の家臣たちは驚いただろう。義元の理屈は「元康はもともと自分の人質であり、信秀にさらわれていたに過ぎない」というものだった。以来、元康は19歳の1560年まで人質のままだった。

 ただし、義元の下での暮らしは待遇が悪くなかった。1555年の元服時に付けられた元信(約2年後に元康に改名)という名前の「元」は義元から与えられたもの。元服の2年後には義元の筆頭家老・関口氏純(渡部篤郎[54])の娘・瀬名との結婚も許された。瀬名は義元の姪だったとも伝えられている。

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