長澤まさみ主演「エルピス」にもつながる冤罪を生む素地 記憶捏造説を裏付ける「ショッピングセンターの迷子記憶実験」とは?

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記憶は作り変えられやすい

 長澤まさみがアナウンサー役を好演する社会派ドラマ「エルピス―希望、あるいは災い―」(フジ系、月22時~)は、死刑囚の冤罪事件をテーマとしている。目下、冤罪を晴らすべく動き回る長澤演じるアナウンサーは、ある「目撃証言」に迫っていくのだが……。
 
 冤罪の要因は複数ある。捜査当局の思い込み、決めつけ、証拠の捏造、そして間違った証言等々。証言者に悪意がなくても、証言そのものは虚偽、というケースもある。

 作家の橘玲氏は、最新刊『バカと無知―人間、この不都合な生きもの―』(新潮新書)で、人の記憶というものは極めて曖昧で作り変えられやすい性質を持ち、それが冤罪につながる可能性がある、と科学的知見をもとに指摘している。実際にアメリカでは偽の記憶がもとで家族崩壊となったケースが頻発したのだという。以下、同書から抜粋して一部を紹介する。

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 第2次大戦後、とりわけベトナム戦争の精神的後遺症に苦しむ帰還兵が大量に現われたことで、心因性の大きなショック(トラウマ)がさまざまな精神疾患を引き起こすという理解が広まった。これがPTSD(心的外傷後ストレス障害)だ。

抑圧された記憶のせいなんだ!

 するとここから、患者がうつなどの精神的な症状で苦しんでいるのなら、その背景には、なんらかのトラウマがあるに違いないという「逆転」の発想が生まれた。幼い頃の過酷な出来事が“抑圧された記憶”というトラウマとなり、成人した後になっても多くの女性を苦しめているというのだ。

 この主張が広く受け入れられたのは、その圧倒的なわかりやすさにある。子ども時代に繰り返し性的虐待を受け、こころに深い傷を負ったものの、「このことをけっして口外してはならない」ときびしくいわれ、その記憶は封印されてしまった。だが“傷”は大人になっても生々しく残り、それがうずくたびに精神的な混乱に襲われ、やがて社会生活が破綻してしまう……。「そうか、わたしの人生がなにもかもうまくいかないのは、抑圧された記憶のせいなんだ!」

 いうまでもなくこれは、「ひとは受け入れがたい記憶や欲望を無意識に抑圧している」という“俗流”精神分析理論の焼き直しだ。うつや神経症の背後には幼少期の性的外傷が隠されており、この症状は“抑圧された記憶”を回復することでしか消すことはできないのだという。

記憶回復療法の台頭

 この理論を受け入れたセラピストたちは、催眠療法やグループ療法で患者の「記憶」を回復し、“ほんとうの自分”を取り戻すべきだと主張しはじめた。そればかりか、トラウマ体験を思い出した“被害者”に“加害者”である親を訴えるよう促した。

 1980年に出版された『ミシェルは覚えている』では、催眠療法を受けてトランス状態だったときに抑圧されていた記憶が蘇ったとする30歳の女性が、「幼児期に悪魔崇拝カルトによって性的虐待を受けた。母親もカルトの一員だった」と告発し、センセーションを巻き起こした。この本が出版されてから約3年間で、「託児所が実は悪魔崇拝カルトの一員で、預かった子供たちに性的な虐待を行っていた」という訴訟が全米で100件以上提起された。

 92年には、「ヒロインが子供時代に使ったベッドに寝転んだときに、父親から性的虐待を受けていた記憶が蘇る」という物語仕立ての『広い場所』がピューリッツァー賞を受けた。それからの3年で「蘇った記憶」の訴訟はピークに達し、年間100件を超えるようになった〈参考文献/矢幡洋『危ない精神分析マインドハッカーたちの詐術』亜紀書房〉。

迷子記憶実験の中身とは?

 記憶回復療法が全米で大ブームを巻き起こすと、一部の専門家から疑問の声があがりはじめた。とりわけ、アメリカの記憶研究の大家、エリザベス・ロフタスは「懐疑派」の筆頭とされ、殺害の脅迫状が送りつけられるなど、一時は身辺警護のためにボディガードを雇わなければならないほどだった。

 ロフタスは、催眠療法は抑圧されていた記憶を取り戻すのではなく、記憶を捏造しているのだと主張した。そして、きわめて簡単な方法で偽りの記憶を埋め込めることを実証してみせた。それが「ショッピングセンターの迷子記憶実験」だ。

 ロフタスの学生の一人は、14歳の弟に子どものときに起きた出来事を四つ示し、それについて思い出したことを毎日、日記に書くように求めた。そのなかに、5歳のときにショッピングセンターで迷子になったというつくり話をまぎれ込ませておいた。

 すると弟は、早くも1日目の日記で「親切なおじさん」を思い出し、数週間後には、そのおじさんが青いフランネルのシャツを着ていたことや、頭がすこし禿げて眼鏡をかけていたことなど、細部を説明するまでになった。

流動的でつねに書き換え可能

 兄から、ショッピングセンターで迷子になった記憶が偽りだと告げられても、弟は信じようとしなかった。それに対して、実際に起きた出来事の一つは、最後までまったく思い出せなかった〈参考文献/E・F・ロフタス、K・ケッチャム『抑圧された記憶の神話 偽りの性的虐待の記憶をめぐって』仲真紀子訳、誠信書房〉。

 なぜこんなことになるのか。それは記憶が、パソコンのハードディスクに保存されているようなものではなく、流動的でつねに書き換え可能だからだ。

 誰でも子ども時代に迷子になって不安に思ったことや、家族と一緒にショッピングセンターに行った思い出があるだろう。すると、実際に起きていない出来事であっても、ちょっとしたきっかけで、こうした記憶の断片が簡単に結びついてしまう。だが被験者は、この過程を「忘れていた記憶が蘇った」と体験するため、捏造された記憶が“事実”になってしまうのだ。

 ロフタスの研究につづき、認知心理学者たちが次々と「記憶はつくりだせる」という研究を発表した。子ども時代の写真を加工するなどして視覚に訴えると、とりわけ効果的なこともわかった。

トラウマ理論に影響を受けたセラピストたち

 なんらかの理由で社会生活に失敗し、精神的に苦しんでいる女性がいたとしよう。そんな彼女は、なぜ自分だけがこんなにつらい思いをしなければならないのか、その理由を必死に探している。トラウマ理論に影響を受けたセラピストたちはこの過程に介入することで、いとも簡単に偽りの記憶を埋め込み、とてつもない災厄を引き起こしたのだ。

 記憶回復療法が似非(えせ)科学であることが明らかになり、幼児虐待などで懲役刑に処せられていた被告らが再審で逆転無罪になると、こんどは父親が娘を訴えるなどの事例が続発した。記憶を修復すると喧伝するオカルト心理学は、多くの家族を修復不可能なまでに破壊してしまったのだ。

『バカと無知―人間、この不都合な生きもの―』より一部を抜粋して構成。

橘 玲(たちばな・あきら)
1959年生まれ。作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』が30万部超のベストセラーに。『永遠の旅行者』は第19回山本周五郎賞候補となり、『言ってはいけない 残酷すぎる真実』で2017新書大賞を受賞。

デイリー新潮編集部