過剰敬語「よろしかったでしょうか」とSNS上の悪口とのウラにある「人間の残酷な本性」

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絶体絶命のときは?

 いつからか世の中に広まった感のある、「よろしかったでしょうか」という過剰敬語。普通に「よろしいですか」と言えばいいのに、より丁寧にしようとするあまりに過剰でおかしな日本語になってしまうのだろう。ひたすら丁寧に、という傾向は強まる一方で、今では上司が部下に対して、敬語で話しかけるのも珍しくなくなっている。学校でもあだ名を排し、「さん付け」にしようという動きが見られる。リアルな社会ではやたらと丁寧なコミュニケーションが求められているのに対して、SNS上では正反対の傾向がある。匿名のユーザーはもちろんのこと、時に著名人までもが驚くほど攻撃的な表現で他人を罵るのだ。このギャップはどういうことなのか。作家の橘玲氏は、最新刊『バカと無知―人間、この不都合な生きもの―』(新潮新書)でこの点に着目。背景を考えていくと、そこには人間の本性ともいうべき残酷な性質が関係しているというのだ。以下、同書から抜粋して一部を紹介する。

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 攻撃を受けたとき、生き物はまず逃げようとし、それが無理なら反撃する。逃げることも闘うこともできない絶体絶命のときは、体温と心拍数を下げ、胃や腸内のものを排泄し、意識を失う。なぜ「死んだふり」をするかというと、一般に捕食者は死んだ動物の肉を食べないからだ。

教育が成立するには?

 学校のいじめにおいては、いじめられた子どもは逃げることも闘うこともできずフリーズする。だがこれは、脳にとっては大音量で警報が鳴っている状態なので、日常化するとさまざまな深刻な精神症状が現われる。

 そう考えれば、いじめ問題の本質は、学校という逃げ場のない空間に同世代の子どもたちを“監禁”するという、進化の歴史ではあり得ない「異常な文化」にあるのだろう。

 いったん自尊心への脅威だと見なすと、脳はただちに「攻撃モード」になるので、相手の言葉に耳を貸そうとはしない。この時点で、もはや熟議も説得も不可能になっている。

 かつては、年長者(先輩)は年下(後輩)に、男は女に優越的に振る舞うのが当然とする文化規範があった。共同体の構成員全員がこの規範に従うのなら、「身分」に則った言動が自尊心を傷つけることはない(みんな同じで、しかたのないことだから)。

 教育が成立するには、教師と生徒は「身分」がちがわなければならない。「学校はそういうところ」という合意が教師や生徒、親(地域社会)のあいだで成立していてはじめて、教師は生徒を叱りつけることができる。

叱責=自尊心への攻撃

 ところが社会のリベラル化が進み、生徒が教師と対等だと思うようになると、叱責は自尊心への攻撃と見なされる。こうして教師―生徒の制度的な枠組みが壊れ、「校内暴力」や「学級崩壊」が起きることになった。近年、生徒たちがおとなしくなったのは、教師が生徒と「友だち」として接するようになり、自尊心を傷つけなくなったからだろう。

 社会がリベラルになり、すべてのひとが平等の権利を保障されるのはもちろんよいことだが、人間関係がフラットになると、どんな言葉が相手を傷つけるかわからなくなる。こうして若者たちは、「よろしかったでしょうか」のような過剰な敬語を使うようになり、会社でも上司が部下に敬語で話しかけるのが当たり前になった。

 いまや、すべての会話が相手の自尊心を傷つけないよう、細心の注意を払って行われている。――興味深いのは、アメリカでは平社員が上司ばかりか社長まで名前で呼び捨てにするという逆の方向(カジュアル化)で形式上の平等が達成されていることだ。

言論プラットフォームとしては最悪

 だがこれは、相手の反応が目に見え、人間関係を紛糾させると自分が不利になるとわかっている場合の話だ。ところがSNSでは、多くは匿名で意見の交換が行われ、テキストの向こうに人格を想像することは難しい。

 古今東西の歴史をひもとけばわかるように、人間は匿名の陰に隠れるとかぎりなく残酷になる。戦場で想像を絶する残虐行為が行われるのは、軍隊が個人ではなく匿名の「兵士」の集団だからだ。

 SNSは人類の進化には存在しない環境で、自分は安全な場所にいながら、相手を一方的に攻撃できるという、言論空間のプラットフォームとしては最悪の環境をつくり出した。そこでは、ささいなことで自尊心を傷つけられたと感じた者たちが罵詈雑言や誹謗中傷をぶつけ合っている。

 ここまでは、人間の本性からの論理的帰結だ。悩ましいのは、だったらどうすればいいかの答えが、まだどこにもないことだ。

『バカと無知―人間、この不都合な生きもの―』より一部を抜粋して構成。

橘 玲(たちばな・あきら)
1959年生まれ。作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』が30万部超のベストセラーに。『永遠の旅行者』は第19回山本周五郎賞候補となり、『言ってはいけない 残酷すぎる真実』で2017新書大賞を受賞。

デイリー新潮編集部

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