【鎌倉殿の13人】和歌を愛した源実朝の実像 もし28歳で公暁に暗殺されなかったら?

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実朝は暗殺を予期していた?

 だが、実朝政権は1219年1月27日で終わった。雪の降るこの日の鎌倉・鶴岡八幡宮で、実朝は甥で猶子(実子ではない子供)の公暁(寛一郎)に暗殺された。

 実朝が八幡宮に行ったのは右大臣になった拝賀(報告と感謝)のため(『吾妻鏡』)。頼家の子である公暁は政子の配慮で八幡宮の別当(長官)に就いていた。実朝28歳、公暁20歳の時だった。

『吾妻鏡』によると、事件直前には不思議なことが続いたという。文官の大御所・大江広元(栗原英雄)はなぜか涙がとまらなくなった。また、実朝自身も結髪のために側にいた近習の1人に鬢の毛を渡し、形見だと説明した。

 さらに実朝は結果的に辞世の句となる和歌を、御所の梅を見ながら詠んだ。これが自らの死を予見していたと受け取れる内容だった。このため「禁忌の和歌」と呼ばれる。

「出でいなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春をわするな(自分が出て行き、主のいない家となってしまおうが、軒端〈軒の先端〉の梅よ、春を忘れるな)」(『吾妻鏡』)

 八幡宮行きには義時も御剣役(実朝の剣を持つ役目)として同行した。だが、体調不良のため、源仲章に剣を渡し、途中で帰宅している(『吾妻鏡』)。このため、仲章が義時と間違えられてしまい、殺された(『愚管抄』)。またも偶然が義時の味方をした。

 実朝が亡くなってから一夜明けた同28日には深い悲しみに襲われた安達景盛ら御家人100人余が一斉に出家し、武家社会から離れた。実朝が愛されていた人物なのは間違いない。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。大学時代は放送局の学生AD。1990年のスポーツニッポン新聞社入社後は放送記者クラブに所属し、文化社会部記者と同専門委員として放送界のニュース全般やドラマレビュー、各局関係者や出演者のインタビューを書く。2010年の退社後は毎日新聞出版社「サンデー毎日」の編集次長などを務め、2019年に独立。

デイリー新潮編集部

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