【鎌倉殿の13人】和歌を愛した源実朝の実像 もし28歳で公暁に暗殺されなかったら?

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正岡子規、小林秀雄も絶賛した実朝の和歌

 ちなみに実朝が詠んだのはこんな和歌だ。

「道すがら富士の煙も分かざりき晴るる間もなき空の景色に(道すがら、富士山の噴煙も分からないほど空は曇っていた)」(『新古今集』)

 その後も実朝の和歌への熱は高まる一方だった。1209年7月には夢の中でのお告げに従い、和歌の神などが祀られている住吉大社(大阪市住吉区)に20首を奉納した。また一方で30首を定家に送り、批評を依頼した(『吾妻鏡』)

 定家は実朝の求めに応じ、合点(和歌などを批評する際、よしとするものに点をつけること)を加え、鎌倉に送り返した(『吾妻鏡』)。以来、定家は実朝の和歌の師となる。

 また、実朝は随筆『方丈記』(1212年)で知られる歌人・鴨長明たちとも交流し、和歌の技量を高め、高評価される和歌を次々と詠んだ。

 あの時代の人が誉めただけでなく、明治期の俳人で歌人の正岡子規も絶賛した。子規が讃えた実朝の和歌の1つはこれである。

「いとほしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母をたづぬる(いじらしい。見ていると涙がとまらない。孤児が母を探し求めている)」(『新古今集』)

 近代文芸評論の確立者である小林秀雄もまた歌人・実朝を絶賛した人で、その和歌をこう評した。

「叫びは悲しいが、訴えるのでもなく求めるのでもない。感傷もなく、邪念も交えず透き通っている」(小林秀雄『モオツァルト・無常という事』)

 実朝の代表作とされる和歌の中から2首を挙げたい。

「古寺のくち木の梅も春雨にそぼちて花もほころびにけり(古寺のくちた梅の木が春の雨でびしょ濡れになり、梅の花もほころんでいる)」(『金槐集』)

「昨日まで花の散るをぞ惜しみこし夢かうつつか夏も暮れにけり(つい昨日まで桜が散るのを惜しんできたが、夢か現実か、もう夏が終わろうとしている)」(同)

公平を重んじた実朝

 ただし、実朝は和歌しか頭になかったわけではない。18歳になった1209年からは親政(将軍自身が政治を行うこと)を始め、その政務の数々が『吾妻鏡』に記録として残っている。初代執権・時政は既に失脚。北条義時(小栗旬)が2代目の執権になっていた。

 実朝は何事にも公平な人物だったとされている。訴訟や御家人の評価や処分に私心を交えなかった。義時との付き合い方もそう。同11月、義時は29歳年下の実朝に対し、自分の郎従(下男)には武士に準ずる待遇をして欲しいと要求した。だが実朝は拒否する。

 義時だけ特別扱いしたら、不公平になる。武士とは将軍である自分と主従関係を結んだ者だ。義時の郎従は自分と関係ない。実朝は幕府内の秩序維持を重んじた。

 また頼家は複数の側室を持ったうえ、御家人・安達景盛(新名基浩)から愛妾まで奪ったが、実朝は側室を持たなかった。それもあってなのか、御台所との仲は円満。御家人たちが実朝に大きな不満を抱いたという記録も見当たらない。皆に愛されている「鎌倉殿――」の実朝像と重なる。

 実朝政権が長期化したら幕府は違った方向へ行ったのかも知れない。少なくとも後鳥羽上皇と幕府が争う形となった「承久の乱」(1221年)は起きなかったのではないか。実朝が「君」と仰いだ上皇との争いを望むとは思えない。

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