終戦後もアメリカは原爆を落とそうとしていた【公文書発掘】 

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計画がついえた理由

 これらの目的を果たすために必要な原爆の数は最少で59発、最多で224発と見積もられた。最少では不足する可能性が大きいので、最多の方の224発が生産目標となった。

 まだ、ロケットも誘導ミサイルも開発中だったので、運搬手段としてはB-29爆撃機が考えられていた。その航続距離は9000キロなので、ソ連と満州全域を爆撃するために出撃基地が10カ所必要だった。注目すべきは、ブレーメン(ドイツ)、フォッジア(イタリア)、クレタ(ギリシャ)と続く基地のリストの中に沖縄と占守(シュムシュ)島が含まれていたことだ。

 千島列島の一つである占守島は、すでにソ連に占領されていたので、この文書でMデイと呼ばれている米ソ開戦のときは、先制攻撃し、奪取するつもりだったことがわかる。

 一見したところ、さまざまなデータを踏まえた、よく練られた計画のように思われる。机上のものとはいえ、実現可能にみえる。

 最大の問題はアメリカの原爆の製造能力だった。アメリカは45年の末までに原爆を9発製造し、そのうち7発が使用可能だった。もちろん、どんどんペースアップしていくことは可能だったが、224発以上作り、それをすべて実戦配備するには何年かかるかわからなかった。これこそが、原爆という切り札を持ちながらモロトフを屈服させることができない理由だった。

 45年9月11日、国務長官バーンズは、当時の新聞の表現では「原爆を腰にさげて」勇躍ロンドン外相会議に向かった。ところが、彼を待ち構えていたのは「扱いやすくなった」どころか、一歩たりとも引こうとしないモロトフだった。ルーマニアとハンガリーからのソ連軍の撤退を求めても、それに応じるどころか逆に傀儡(かいらい)政権の承認を要求したうえ、日本の占領に加えるよう強く求めてきた。受け身に回ったバーンズは、これらを拒否するのがせいぜいだった。

 このモロトフの強硬姿勢にはいろいろな要因が働いているのだが、そのなかで大きかったのが、アメリカに送り込んだスパイからの原爆についての情報だった。私が読んだ45年7月2日のヴェノナ文書(ソ連の暗号電報を解読したもの)の中では、原爆開発のためにアメリカに渡っていたクラウス・フックス(ドイツ人ながら当時はイギリス国籍)が43年8月27日以降定期的にソ連のエージェントにアメリカの原爆開発の状況を報告していた。

 他にもソ連のスパイは原爆製造の現場には複数いたので、アメリカが原爆を独占保有していても、製造能力と実戦配備の問題などからソ連に対し戦略的に決定的優位に立っているわけではないことをモロトフは知っていたと考えていいだろう。このあともバーンズはモロトフ相手に外交上の敗北を重ねていく。

 そして、アメリカが224発の原爆を完成させ、実戦配備する前の49年8月29日、ソ連は原爆の実験に成功してしまった。こうして、今日に至るまでの核軍拡競争が始まり、唯一の被爆国・日本もその一方の傘下にいる。

有馬哲夫(ありまてつお)
早稲田大学教授。1953年生まれ。早稲田大学卒。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得。メリーランド大学、オックスフォード大学などで客員教授を歴任。近著に『日本人はなぜ自虐的になったのか 占領とWGIP』。

週刊新潮 2019年8月15・22日号掲載

特別読物「公文署発掘! 終戦後もアメリカは原爆を落とそうとしていた」より

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