終戦後もアメリカは原爆を落とそうとしていた【公文書発掘】 

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 いまから77年前に落とされた2発の原爆が、日本の「終戦」を決定づけたことは間違いない。だが、アメリカにとって、日本への原爆投下は一つの通過点に過ぎなかった。トルーマン大統領は広島と長崎の被害状況を詳しく調べ、その威力を細部に至るまで把握、次に投下すべき66都市を選び出した。それはモスクワ、レニングラードなど台頭著しいソ連の都市だった。【有馬哲夫/早稲田大学教授】※「週刊新潮」2019年8月15日・22日号掲載

 1945年8月6日、広島に原爆が投下された。その3日後の8月9日には長崎の上で2発目の原爆が炸裂した。私たち日本人は、これらの原爆投下を「終わり」と感じている。この残虐な兵器が使われたあとで日本が降伏し、戦争が終わったのでそう感じている。しかし、世界的視野から見ると、これはむしろ「始まり」だった。つまり、現在に至る核兵器の拡散の始まりだ。

 長崎に原爆を投下したあと、アメリカ政府首脳と陸軍の幹部は何を考えていたのだろうか。日本との戦争がまもなく終わることは、沖縄戦のあたりですでに織り込み済みだった。したがって、アメリカ政府首脳は、6月頃には日本降伏後のことを具体的に考え始めていた。そのなかで最も重要なのは「ソ連とどう向き合うか」だった。原爆を広島・長崎に投下したあと、この問題について彼らはどのような形にしようとしていたのだろうか。

 話を4月までさかのぼろう。ハリー・トルーマン大統領は、前任者のフランクリン・ルーズヴェルト大統領とは違って、ソ連とうまくいっていなかった。彼は大統領就任の表敬にやってきたヴャチェスラフ・モロトフ外相と4月23日の会談で口角泡を飛ばす言い合いをしていた。ヤルタ協定では「ポーランドは自由選挙をして、国民に政権を選択させる」としていたのだが、ソ連はこれを一方的に破って、地方都市ルブリンに移っていたポーランド国民解放委員会に政権を握らせたからである。

 我を忘れるほどの激怒には、個人的背景もあった。トルーマンは中西部ミズーリ州の田舎町出身で、弁護士をしていたが大学は出ていなかった。風采が上がらず、分厚い眼鏡をかけていて、小柄なので「ピーナッツ」と呼ばれて馬鹿にされていた。

 小物だからこそ扱いやすいと思ったこの地方の政治ボスであるトム・ペンダーガストに引きたてられて、彼は上院議員になり、44年の民主党大会で、カリスマ的なへンリー・ウォレスを嫌った勢力の支持を得て、副大統領候補になることができた。そして、ルーズヴェルトの大統領当選により副大統領となり、45年4月12日のルーズヴェルトの死によって大統領に昇格するという僥倖(ぎょうこう)を得る。

 しかし、彼がルーズヴェルトから引き継いだ閣僚たちの多くは、東部名門大学の出身で、大企業の経営者や大手弁護士事務所の共同経営者といった経歴を持っていた。中西部出身の学歴のないトルーマンがこういったエリートたちを苦手と思っていたことは想像に難くない。当然、彼はそれまで以上に「低く見られること、軽んじられること」を警戒し、嫌った。

 モロトフと言い合いしたあと、彼はソ連に「目に物を見せてくれよう」と思った。そうでもしなければ、閣僚たちに適当にあしらわれ、自分のような「棚からぼた餅」大統領は終わりだと考えた。

 このことは原爆投下の決定にもつながっていく。これまで原爆は、広島や長崎でそうしたように、一般市民のいる大都市に無警告で投下することを、他の選択肢の検討もなく決定されたと考えられてきた。しかし私が『原爆 私たちは何も知らなかった』(新潮新書)で明らかにしたように、アメリカ国立第2公文書館に残る数々の歴史資料は、そうではなかったことを示している。

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