【鎌倉殿の13人】「あんた、やるな」と言わしめた策士「りく=牧の方」の生涯

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その後の時政と牧の方

 伊豆に引き込んだ時政について『吾妻鏡』が記すのは、時政が願成就院のかたわらに塔婆を建立したという記事と、建保3(1215)年に時政が亡くなったという記事だけだ。

 ところが、時政が伊豆に移ってもなお、政治的影響力を持ち続けたのではないかとする説もある。

 後鳥羽院が鎌倉に派遣した使者に、慈円という僧侶が書いた書状の一部が残っている。書かれたのは承元3(1209)年から建暦2(1212)年頃と思われ、そこには将軍・実朝や政子、義時、大江広元と並んで、時政を指すと思われる「北条入道」という名が見えるのだ。これは後鳥羽院と時政との間に交流があったことを示すもので、伊豆に隠居後も時政が一定の政治的影響力を持っていたことの証しだと考えられる。

 牧の方はどうか。『吾妻鏡』はやはり何も記していないが、歌人として知られる藤原定家の日記『明月記』には、時政の死後、牧の方が上洛して時政の13回忌供養を行ったことが記されている。

 かつて平賀朝雅の妻だった牧の方の娘は、このときは藤原国通の妻となっていた。時政の供養は、この国通の屋敷内に公卿や殿上人を集め、牧の方が施主となって建立したお堂で開かれたという。伊豆に逼塞(ひっそく)させられ、夫の死後すでに12年が経っているというのに、たいした羽振りの良さだ。

 さらに、13回忌供養を終わらせた牧の方は、京都の公家に嫁がせていた娘たちやその子たちを引き連れ、大坂や奈良のいくつもの大寺院を参詣している。そのにぎにぎしく派手な行動に、書き留めた藤原定家も嘆きの言葉を付しているほどだ。

 牧の方の娘の1人は藤原定家の息子・為家の妻の母にあたることから、この娘を通じて牧の方は、朝廷と幕府が交渉する際に朝廷側の窓口となる関東申次(もうしつぎ)という役職にあった西園寺公経(さいおんじ・きんつね)に、関東すなわち幕府の重要情報を伝える情報ルートとなっていたという。この記事は嘉禄元(1225)年のものなので、時政の死後10年を経てもなお、牧の方は朝廷と幕府の間を取り持つ役割を担っていたことになる。

 牧の方が夫の時政を陰で操る策謀家であったかどうかは疑わしいが、とんでもなくバイタリティ溢れる女性であったことは、どうやら間違いないようだ。

安田清人(やすだ・きよひと)
1968年、福島生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊「歴史読本」(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は編集制作会社「三猿舎」代表。歴史関連メディアの編集、執筆、監修などを手掛けている。

デイリー新潮編集部

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