【鎌倉殿の13人】頼朝の死後、北条時政の権力欲が露わに……なぜ我が世の春は長続きしなかったか

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結婚の回数も子供の数も不明

 時政は伊東祐親(浅野和之)の娘とも結婚していた。政子、義時(小栗旬)、阿波局(宮澤エマ)の母親である。「鎌倉殿――」第21話から、やはり時政の子供である北条時房(瀬戸康史)がいきなり登場し、視聴者は面食らったが、仕方がなかった。時房の母親は不明なのである。

 時政は何度結婚したのかはっきりせず、子供の数も不確か。牧の方とは少なくとも6人をもうけ、計20人ほど子供がいると見られている。お盛んだった。「若き妻」と結ばれたのも納得である。

 時政の底知れぬ欲望は頼朝が亡くなると権力に向けられた。1203年9月2日、権力闘争のライバルだった比企能員(佐藤二朗)を謀殺し、比企一族も滅亡させた。「比企の乱」だ。

 能員と頼家が、能員の外孫で頼家の長男である一幡(白井悠人)を次期将軍に決めたからだった。時政は自分が権力を握るため、頼家の弟・千幡(のちの実朝、水戸部巧芽)を跡目にしたかった。ちゃぶ台返しである。翌1204年8月には頼家も暗殺した。

 比企の乱から5日後の1203年9月7日、実朝は3代将軍に任じられた。まだ12歳。誰かの後見が必要だった。時政はその立場に名乗りを上げた。全ては計画通り。時政は政務と財政を管轄する幕政の中心組織・政所の別当(長官)に就く。力ずくだった。

 政所の別当は複数いた。宿老の1人である大江広元(栗原英雄)もそうだったが、時政は筆頭別当になった。執権である。すると、時政は実朝を通さずに幕府としての文書を乱発するようになる。

時政と牧の方の1人息子の死

 時政はこの世の春を謳歌した。だが、それは短かった。1204年11月、実朝の正室となる坊門信子を京へ迎えに行った息子の北条政範が、病によって旅先で急死してしまう。時政と牧の方にとっては大切な1人息子だった。まだ16歳。2人は悲嘆に暮れた。

 2人の悲しみと落胆が「畠山重忠(中川大志)の乱」(1205年7月)につながる。政範の死の直後、女婿の平賀朝雅(山中崇)と重忠の息子・重保が、京での酒席で激しい口論をしていたことを2人は知る。朝雅が牧の方に告げ口したからだ(『吾妻鏡』)。時政と牧の方は畠山家を憎むようになる。逆恨みである。

 時政の娘は重忠にも嫁いでいるものの、両者の関係はそれ以前から冷えていた。周囲も知っていた。1204年、藤原定家の日記『明月記』には「時政が重忠に討たれた」と書かれているくらい。間違いだが、そうなっても不思議ではないと傍から思われていたのだ。

 1205年6月の『吾妻鏡』によると、時政は義時と時房に対し、重忠を討つよう命じた。重忠には謀反の疑いがあると説いた。だが、義時は納得しなかった。重忠に謀反の動きなど見られないし、長年の功績があるからだ。

 とはいえ、執権の命令である。義時は従う。三浦義村(山本耕史)と同じく三浦一族の和田義盛(横田栄司)が討伐の先頭に立った。重忠は1180年に義村と義盛の祖父・三浦義明を討っており、2人にとっては仇討ちでもあったからだ。時政には好都合だっただろう。

 幕府の大軍は重忠を討つことに成功した。それはそうだろう。重忠の軍勢は僅か百数十騎。勝負にならない。謀反なんて土台無理だった。

 御家人の間に時政への強い不信感が広まり始めた。義村と義盛を除くと、重忠に恨みなどなかったからだ。謀反が時政のウソとなると、無実の仲間を殺してしまったことになる。

 哀れだったのは時政と牧の方の女婿の1人・稲毛重成(村上誠基)。重成は時政の意を受けて謀反の偽情報を流したと思われてしまい、御家人たちに殺された。とばっちりだ。時政と牧の方も身の危険を感じただろう。

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