【鎌倉殿の13人】頼朝の死後、北条時政の権力欲が露わに……なぜ我が世の春は長続きしなかったか

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 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は29話で1201年9月に関東を襲った暴風雨を描いた。1203年9月の「比企の乱」が近づいてきた。北条時政(坂東彌十郎)の権力欲が露わになる。時政の実像を史料から探る。

頼朝時代は無位無冠

 源頼朝(大泉洋)が鎌倉幕府将軍だった1199年までの7年間、北条時政は無位無冠だった。目立った役職や地位に就いていない。源平合戦での武功がほとんどなかったからだ。

 頼朝時代の時政は政治力の評価も低かった。やはり実績がなかったためである。「鎌倉殿――」の第7話で描かれた通り、源平合戦下で甲斐の武田信義(八嶋智人)と連携する交渉にも失敗した。

 頼朝の妻・政子(小池栄子)の父親として下にも置かれない扱いを受けていたものの、権力はなかった。だからといって時政が役職や地位に無関心だったわけではない。

 1999年に頼朝が死去すると、権力に飛びつく。合議制を構成する宿老13人の1人になったほか、翌1200年には近江守(現・静岡県西部と中部の一部の長官)に就いた。従5位下の位階も授与された。従5位下からは貴族である。外孫である源頼家(金子大地)の推挙によるものだが、時政の意を受けた政子が推したからだった。

 牧の方(宮沢りえ)との再婚も時政の上昇志向の表れと見られている。牧の方は京とのパイプが太かったうえ、牧家は家格が高かった。北条家も桓武平氏の末裔であると鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』には書かれているものの、およそ名門とは言えなかった。

 一方、牧の方は武士・牧宗親(山崎一)の妹、あるいは娘。宗親は京都御所の警備を担当する武者所などを経験したエリートだった。なにしろ宗親の姉・池禅尼は平清盛(松平健)の継母なのだ。宗親は「鎌倉殿――」の第12話で描かれた通り、「亀の前事件」(1182年)の実行犯だが、高貴な人なのである。

 また、時政は牧の方との間に生まれた娘のうち2人を京へ嫁がせた。相手は公卿の三条実宣と公家の坊門忠清。ともに名家だ。天台宗僧侶・慈円の史論書『愚管抄』にはこう書いてある。

「時政と若き妻との間に生まれた娘が……公卿、殿上人たちに嫁いだ」(『愚管抄』)

 殿上人とは天皇の日常生活の場である清涼殿の殿上間に昇ることを許された者。時政の娘たちの嫁ぎ先は『愚管抄』がわざわざ書くほど華々しかった。頼朝による大姫(南沙良)の入内工作と同じく、運動したのだろう。

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