アニメ、ゲーム、歌舞伎…「日本的とは何か」 国葬を巡る議論に注目すべき理由(古市憲寿)

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「日本的」という言葉がある。歌舞伎や相撲を「日本的」と感じる人もいれば、トヨタや日産といった自動車を想像する人もいるだろう。少し前ならゲームやアニメだったかもしれない。

 だが実際の「日本的」は多様であるし、実態とイメージの乖離もある。たとえば松竹歌舞伎の年間観客動員数は約130万人。2018年「スポーツライフに関する調査」によれば、大相撲の推計動員数は216万人で、プロ野球の3035万人やJリーグの1644万人には遠く及ばない。

 ゲームにしても、日本メーカーがハードでもソフトでも世界を席巻していた90年代と違い、存在感は大きく低下した。世界の市場シェアでは、現在でも任天堂とソニーは上位に食い込むが、テンセントや網易(ワンイー)、マイクロソフトなど米中企業の躍進が目覚ましい。

 ある起業家からは「このままではゲーム史において日本の名前が消えてしまうかもしれない」という危惧を聞いたことがある。

 一体「日本的」とは何なのか。経済が好調な時代には、そんなことを悩む必要がなかった。世界で売れている日本製品やサービス、更には経済モデルまでも、堂々と「日本的」だと思えたからだ。だが国力が低下して、先行きが不安な時期ほど、人々は何が「日本的」かを探し始める。

 しばしば「日本的」の答えは過去に求められる。たとえば小津安二郎の家族映画を観て、「伝統的な日本の家族」だと感じる人は少なくないだろう。海外に「いちばん日本的だと日本人が思っている映画監督」だと紹介されたこともある。

 だが、小津自身は、生涯家族を作らず、独身を貫いた人だった。さらに「ブルジョワ趣味の絵空事」という批判もあったように、公開当時のリアルな日本を描いたわけでもない(與那覇潤『帝国の残影』)。

 このように「日本的」とは、さまざまな誤解や思い込みによっても形成されていく。これからの日本は、何を「日本的」と見なしていくのか。

 今年の秋、安倍晋三元首相の国葬が営まれるのだという。保守派は安倍元首相という存在に「日本的」を仮託したいのだろうし、左派はそれを批判することで「日本的」を相対化したいのかもしれない。

 しかし通算在任期間が3188日に及んだ安倍元首相に一元的な評価をするのは難しい。保守派と見なされたゆえにリベラルな政策が実行できた面もあるだろうし、3188日の間には変節もあったはずだ。だから称賛するにしても、批判するにしても、自分にとって都合のいい「日本的」を読み込むことができる。

 国葬の是非を巡る議論の激しさは、その存在感の大きさを証明している。資源配分が仕事の政治家にとって、全国民が賛成する国葬はあり得ない。理想論を言えば、国葬に対する議論を通して、未来の「日本的」を考える機会になればいいのだが、実際はただの悪口の応酬になりそうである。

 それこそが「日本的」なのか、もはや「日本的」なんて必要ないのか。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2022年8月4日号掲載

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