プロも大注目の「4番候補」だったはずが……期待外れに終わった“超高校級スラッガー”3人

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3年目の開花を予感させるも

 同年のドラフトでは横浜と中日が競合指名し、抽選の結果、地元・横浜への1位入団が決まる。1軍デビューは、2年目の96年5月14日の巨人戦、9回に代打でプロ初打席に立った紀田は、ガルベスに一ゴロに打ち取られた。

 だが、同16日の巨人戦では、6回に柏田貴史からプロ初安打となる中越え二塁打を記録。5月17日、19日の中日戦では8番サードでスタメン出場をはたした。

 同年はイースタンで10本塁打を記録し、3年目の開花を予感させたが、その後はケガに泣き、再び1軍に上がることのないまま、通算10打数1安打で、00年オフに現役引退(最終年は西武に在籍)。プロ2打席目に放った二塁打が最初で最後の安打になった。一軍での通算成績は、6試合に出場し、打率.100、本塁打と打点はいずれもゼロに終わっている。

 横浜高のチームメイトで、ドラフト4位の同期入団・多村が、肩の大手術を経て、2004年に40本塁打を記録するなど、主軸に成長したことを考えると、紀田も順調に育っていれば、多村と3、4番を打ち、00年代に最下位6度と低迷したベイスターズの“黒歴史”も違ったものになっていたかもしれない。

“東の沢井、西の福留”

 高校時代は“東の沢井、西の福留(孝介)”と並び称されながら、プロ入り後は明暗を分けたのが、沢井良輔(銚子商)である。

 1995年のセンバツ、沢井は1回戦のPL学園戦で初回に右翼席中段に豪快な先制アーチを放ち、福留とアーチの競演の末、チームは11対7で勝利した。優勝候補を下して勢いに乗った銚子商は準優勝し、沢井も福留のライバルとして注目されるようになった。

 同年のドラフトでは、福留の抽選に敗れたロッテとヤクルトが外れ1位で競合の末、地元のロッテに入団した。福留が近鉄の指名を拒否して社会人入りしたことから、「3年後、沢井がどれだけ福留を引き離しているか」と期待を込めた論調で報じる専門誌もあった。

 だが、初めの2年間は2軍暮らし。3年目に代打で1軍デビューし、プロ初安打を記録したのは、5年目の2000年6月1日の近鉄戦だった。

「一昨年の初打席より緊張しなかった。1軍は応援もすごいし、うれしかった」

 と、初々しいコメントを残した沢井。同8日の日本ハム戦で、伊藤剛からプロ1号を放つなど、次第に結果もついてきた。02年にはキャリアハイの41試合に出場し、3本塁打、8打点を記録した。

 ところが、翌年8月に右肩を痛め、半年間ボールが投げられないうちに、西岡剛や今江敏晃に追い越され、04年以降は1軍出場のないまま、05年オフに戦力外通告を受けた。通算成績は、実働5年で90試合に出場し、打率.225、6本塁打、19打点だった。

 筆者はロッテ退団直後の沢井を取材する機会があった。その時、沢井は、10年間のプロ生活を以下のように、振り返っていた。

「最初の5年間は天狗になってた部分もあったかも。もっと謙虚さがあれば、違った結果が出ていたかな……。後半の5年間は本当に熱中して野球に取り組んでいたのですが……」

“鉄は熱いうちに打て”は、野球の世界でも、大きな意味を持つ言葉だと痛感させられる。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮編集部

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