「世界の行く末に対し、善をなし、徳を積む責務があります」 安倍晋三元総理の名スピーチを振り返る(5) 

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『美しい国へ』は安倍晋三元総理が第1次政権発足直前、2006年に発表した著書で、当時はベストセラーとなった。愛国的なテイストが強いことからアレルギー反応を示す向きもいたが、安倍元総理自身はこの方向性に強い確信を持っていたのだろう。第2次政権発足直後には、同書の改訂版『新しい国へ―美しい国へ 完全版―』を発表している。

 安倍元総理の名スピーチ、演説を振り返る本企画の5回目は「もっと美しい国へ」と題された2013年4月のスピーチだ。

(以下、『日本の決意』所収「もっと美しい国へ」より)

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昭和天皇のお気持ち

 本日、天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、各界多数の方々のご参列を得て、主権回復・国際社会復帰を記念する式典が挙行されるに当たり、政府を代表して、式辞を申し述べます。

 61年前の本日は、日本が、自分たちの力によって、再び歩みを始めた日であります。サンフランシスコ講和条約の発効によって、主権を取り戻し、日本を、日本人自身のものとした日でありました。

 その日から、61年。本日をひとつの大切な節目とし、これまで私たちがたどった足跡に思いを致しながら、未来へ向かって、希望と、決意を新たにする日にしたいと思います。

 国、敗れ、まさしく山河だけが残ったのが、昭和20年夏、わが国の姿でありました。食うや、食わずの暮らしに始まる7年の歳月は、わが国の長い歴史に訪れた、初めての、そして、最も深い断絶であり、試練でありました。

 そのころのことを、亡き昭和天皇は、このように歌にしておられます。

「ふりつもるみ雪にたえていろかえぬ松ぞををしき人もかくあれ」

 雪は、静謐(せいひつ)のなか、ただしんしんと降り積もる。松の枝は、雪の重みに、いましもたわまんばかりになりながら、じっと我慢をしている。我慢をしながら、しかしそこだけ目にも鮮やかに、緑の色を留めている。わたしたちもまた、そのようでありたいものだという御製です。

 昭和21年の正月、日本国民の多くが、飢餓線上にあえぎつつ、最も厳しい冬を、ひたすらしのごうとしていた時に、詠まれたものでした。

 多くの国民において、心は同じだったでしょう。

 やがて迎えた、昭和27年、主権が戻ってきたとき、私たちの祖父、祖母、父や、母たちは、何を思ったでしょうか。きょうはそのことを、国民ひとりひとり、深く考えてみる日なのだと思います。

自立した、敬意を集める国

 61年前の本日、国会は、衆参両院の、それぞれ本会議で、主権回復に臨み、4項目の決議を可決しております。

1、日本は一貫して、世界平和の維持と、人類の福祉増進に貢献せんことを期し、国連加入の、一日もすみやかならんことをねがう。

2、日本は、アジアの諸国と善隣友好の関係を樹立し、もって、世界平和の達成に、貢献せんことを期す。

3、日本は、領土の、公正なる解決を促進し、機会均等、平等互恵の、国際経済関係の確立を図り、もって、経済の自立を期す。

4、日本国民は、あくまで民主主義を守り、国民道義を昂揚し、自主、自衛の気風の振興を図り、名実ともに、国際社会の、有為にして、責任ある一員たらんことを期す。

 以上、このときの決議とは、しっかりと自立した国をつくり、国際社会から、敬意を集める国にしたいと、そういう決意を述べたのだといってよいでしょう。

 自分自身の力で立ち上がり、国際社会に再び参入しようとする日に、私たちの先人が、自らに言い聞かせた誓いの精神が、そこにはくみ取れます。

 主権回復の翌年、わが国が賠償の一環として当時のビルマに建てた発電所は、いまもミャンマーで、立派に電力をまかなっています。

 主権回復から6年後の昭和33年には、インドに対し、戦後の日本にとって第一号となる、対外円借款を供与しています。

 主権回復以来、わが国が、東京でオリンピックを開催するまで、費やした時間はわずかに12年です。自由世界第ニの経済規模へ到達するまで、20年を要しませんでした。

 これら、すべての達成とは、わたくしどもの祖父、祖母、父や、母たちの、孜々(しし)たる努力の結晶にほかなりません。

 古来、私たち日本人には、田畑をともに耕し、水を分かち合い、乏しきは補いあって、五穀豊穣を祈ってきた豊かな伝統があります。

 その、麗しい発露があったからこそ、わが国は、灰燼(かいじん)の中から立ち上がり、わずかな期間に、長足の前進を遂げたのであります。

 しかしながら、国会決議が述べていたように、わが国は、主権こそ取り戻したものの、しばらく、国連に入れませんでした。国連加盟まで、すなわち、一人前の外交力を回復するまで、なお4年と8カ月ちかくを、待たなければなりませんでした。

沖縄の辛苦

 また、日本に主権が戻ってきたその日に、奄美、小笠原、沖縄の施政権は、日本から、切り離されてしまいました。

 とりわけ銘記すべきは、残酷な地上戦を経験し、おびただしい犠牲を出した沖縄の施政権が、最も長く、日本から離れたままだった事実であります。

「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」。佐藤栄作首相の言葉です。

 沖縄の、本土復帰は、昭和47年、5月15日です。日本全体の戦後が、初めて本当に終わるまで、主権回復から、なお20年という長い月日を要したのでありました。

 沖縄の人々が耐え、忍ばざるを得なかった、戦中、戦後のご苦労に対し、通り一遍の言葉は、意味をなしません。わたくしは、若い世代の人々に特に呼びかけつつ、沖縄が経てきた辛苦に、ただ深く、思いを寄せる努力をなすべきだということを、訴えようと思います。

 わが国は再びいま、東日本大震災からの復興という、重い課題を抱えました。しかし、同時に、日本を襲った悲劇に心を痛め、世界中から、たくさんの人が、救いの手を差し伸べてくれたことも、私たちは知っています。

 戦後、日本人が、世界の人たちとともに歩んだ営みは、暖かい、善意の泉をはぐくんでいたのです。私たちはそのことに、深く気付かされたのではなかったでしょうか。

 なかでも米軍は、そのトモダチ作戦によって、被災地の人々を助け、汗と、時として涙をともに流してくれました。かつて、熾烈に戦ったもの同士が、心の通い合うこうした関係になった例は、古来、まれであります。

善をなし、徳を積む責務

 私たちには、世界の行く末に対し、善をなし、徳を積む責務があります。

 なぜなら、61年前、先人たちは、日本を、まさしくそのような国にしたいと思い、心深く、誓いを立てたに違いないからです。

 ならばこそ、私たちには、日本を強く、たくましくし、世界の人々に、頼ってもらえる国にしなくてはならない義務があるのだと思います。

 戦後の日本がそうであったように、わが国の行く手にも、容易な課題など、どこにもないかもしれません。

 しかし、いま61年を振り返り、くむべきは、焼け野が原から立ち上がり、普遍的自由と、民主主義と、人権を重んじる国柄を育て、貧しい中で、次の世代の教育に意を注ぐことを忘れなかった、先人たちの決意であります。勇気であります。その、粘り強い営みであろうと思います。

 私たちの世代はいま、どれほど難題が待ち構えていようとも、そこから目をそむけることなく、あの、み雪に耐えて色を変えない松のように、日本を、私たちの大切な国を、もっとよい、美しい国にしていく責任を負っています。

 より良い世界を作るため、進んで貢献する、誇りある国にしていく責任が、私たちにはあるのだと思います。

 本日の式典に、ご協力をいただいた関係者の皆さま、ご参加を下さいました皆さまに、衷心よりお礼を申し上げ、わたくしからの式辞とさせていただきます。 

(2013年4月28日 主権回復・国際社会復帰を記念する式典 内閣総理大臣式辞)

デイリー新潮編集部

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