引退「吉田拓郎」と学生運動 広島大で運動家から「やめろ!」と吊るしあげられた過去

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作曲家、ボーカリストとしての才能

 拓郎は作曲家としても並ならぬ才能を発揮した。日本のポップス界の巨人だった作曲家の故・筒美京平さんもその才能を讃えていたほど。

 拓郎がつくった曲は故・かまやつひろしさんに提供した「我が良き友よ」(1975年)、キャンディーズに提供した「やさしい悪魔」(1977年)、石野真子(61)に提供した「狼なんか怖くない」(1978年)。

 特に森進一(74)に提供した「襟裳岬」(1974年)はミリオンセラーとなり、日本レコード大賞と日本歌謡大賞をダブル受賞した。
当時、まだ28歳だった。

「中津川(フォークジャンボリー)がなかろうと、僕はメジャーなミュージシャンには絶対になっていたと思います」(拓郎「すばる」2010年3月)

 大した自信だが、その通りに違いない。

 歯に衣着せぬ発言も魅力の1つ。相手が大新聞であろうがひるまなかった。

 1979年2月、拓郎がパーソナリティーを務めていた深夜放送「セイ!ヤング」(文化放送)を聴き始めると、拓郎は最初から激怒していた。同19日付の読売新聞夕刊が社会面トップで「拓郎に盗作の疑い」と報じたからである。

 指摘された曲は1972年に発売された2枚組ライブアルバムの中の「ポーの歌(原曲・おいらはポーッ)」。農村地帯の青年の恋心を表した曲で、詞も曲もおよそ拓郎作品らしくない。それもそのはず。拓郎は以前耳にしたこの曲をライブで歌ってみただけなのだ。

 そのライブを、拓郎がデビュー直後に所属していたインディーズ・レーベルが勝手にレコード化してしまった。それが盗作騒ぎに発展した。

 拓郎の怒りはもっぱら読売新聞へ向けられた。こういったアーティストはまずいない。トラブルに自分で立ち向かうと大火傷する恐れがあるから、所属事務所に任せる。

 誰もやっていないことにも積極的に挑んだ。1975年8月2日から3日には静岡県掛川市のつま恋で、野外オールナイトコンサート「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」を開催した。オムニバス形式ではないオールナイトの野外コンサートは日本初だった。

 動員したのは約7万5000人。音楽関係者たちは一様に仰天したという。ちょっとした地方都市の人口並みの観客を集めてしまったからだ。この大成功を見てほかのアーティストもオールナイトの屋外コンサートを開き始める。当然だった。

 ボーカリストとしても聴く側を惹き付けた。前出「襟裳岬」は森が歌うと襟裳の地域性や季節の移り変わりがテーマとも受け取れるが、拓郎が歌うと、人生の哀歓や友情を歌い上げていることがはっきりと分かる。詩もうまいが、表現力があった。

 アーティストとして才能豊かだった上、人間性と行動も魅力。だから52年もビッグネームであり続けた。

 聴く側の内面を代弁し続けたことも大きい。個人に拘った拓郎の曲に、聴く側は無意識のうちに自分を重ね合わせた。

 間もなく1つの時代が終わる。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。大学時代は放送局の学生AD。1990年のスポーツニッポン新聞社入社後は放送記者クラブに所属し、文化社会部記者と同専門委員として放送界のニュース全般やドラマレビュー、各局関係者や出演者のインタビューを書く。2010年の退社後は毎日新聞出版社「サンデー毎日」の編集次長などを務め、2019年に独立。

デイリー新潮編集部

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