審判に抗議して選手が2時間半も座り込み 「夏の甲子園」地方予選であった驚くべき珍事件

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“レンタルエース”が問題に

 代表校が二転三転する珍事が起きたのが、1939年の東京大会である。同年の決勝戦は帝京商(現・帝京大高)が9対6で日大三中(現・日大三高)を下し、甲子園初出場を決めたはずだった。

 ところが、ベンチ入りメンバーで、後に中日で通算215勝を挙げた杉下茂が「無資格選手」として問題になったことから、話がこじれていく。

 杉下は1学期に休学届を出し、一ツ橋高等小学校の“レンタルエース”として東京市の軟式野球大会の優勝に貢献したあと、帝京商に復学したが、日大三中側が「1ヵ月前まで高等小学校のエースだった選手が、帝京商のベンチにいるのはおかしい」とアピールしたのだ。

 帝京商に弁明の余地はなく、すでに甲子園の宿舎を手配済みだったにもかかわらず、無念の出場辞退となった。1週間後に連盟の役員が同校を訪れ、優勝旗を持ち去っていった際に、玄関先で主将が「持って行かないでくれ」と優勝旗に取りすがって号泣したという話も伝わっている。

 一方、日大三中も、無資格選手がいたことを理由にこれまた出場辞退。上位2校が辞退した結果、準決勝で帝京商に1対9と大敗した早稲田実が代替出場することになった。

前代未聞の放棄試合

 選手全員が球審の判定に抗議して本塁に座り込み、前代未聞の放棄試合となったのが、1953年の京滋大会滋賀県予選1回戦、彦根東対大津東である。

 春夏連続甲子園出場を狙う彦根東は1点を追う最終回、1死から伴正樹が三塁打を放ち、一打同点のチャンスをつくる。だが、次打者・西田尚夫のとき、スクイズを見破った大津東バッテリーにウエストされ、飛び出した三塁走者・伴は三本間に挟まれてしまう。

 伴は必死に逃げ回った末、本塁の約2メートル手前でタッチされたが、直後、捕手が落球したため、この隙を逃さず同点のホームを踏んだ。

 ところが、球審は何のジェスチャーも示さず、三塁塁審と協議後、スリーフィートオーバーでアウトを宣告した。

 これに対して、「絶対に3フィート以内を走っていた」と主張する彦根東・西川寛夫監督は、このジャッジに反発し、試合再開に応じようとしない。

「主審がアウトを認めていたのなら、なぜ即座に宣告されなかったのか、この点を確認したところ、最初は『即座にアウトを宣告した』と嘘の弁明をしておきながら、その直後、『大事を取って塁審と相談した』と前言を翻している。このような曖昧な説明では、どうしても納得できない」(西川監督)

 選手たちも抗議のため、全員でホームプレートを囲むようにして座り込んだ。2時間半の中断後、業を煮やした球審が「プレーボール」を告げても、彦根東ナインは座り込んだまま。直後、放棄試合が宣告され、9対0で大津東の勝ちとなった。この事件により、彦根東は1年間の対外試合禁止処分を受けている。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮編集部

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