日本人の「未熟萌え」の源流は宝塚? 恋愛禁止ルールはいかにして作られたか

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子どもは男役向き

 ここで、宝塚の大きな特徴である「男役」についても触れておこう。男役スターの活躍は、1930年代のレビュー時代の幕開けとともに本格的に始まった。男役スターは「男装の麗人」とも称され、20年代から30年代にかけて登場した断髪のモダンガールの象徴にもなった。

 しかし、「男装の麗人」の発祥は、宝塚ではなかった。そもそも、一般の女性が男性の格好をすることは批判され、「変態」として物議をかもすことも多い時代だった。ましてや、少女歌劇が「家庭向け」である限り、「男装の麗人」がショーの大看板を背負うことは考えにくかった。そんななか、「男装の麗人」のスタイルを生み出し、人気を確立したのは、宝塚のライバルである松竹楽劇部(後の松竹歌劇団=SKD)の水の江瀧子(愛称・ターキー)だった。

 彼女が注目を集めたわけは、独自の男装スタイルにあった。水の江は、身長が163cmと当時にしては大柄だったため、チームでダンスを踊るときに目立ち過ぎてしまい、出番が与えられないことさえあった。だが、ある公演の出演に際して大胆に断髪し、それが斬新な印象を与えたのだ。

 当時、大人の女性にとって、髪を短く切ることには大変な決断が必要だった。だが、当の水の江本人は「まだ子供だったでしょ、短いおかっぱ髪の子はたくさんいましたからね。短い髪になっても平気」と平然としていたという。つまり自身のことを大人の女性ではなく「子ども」だと思っていたから、断髪と男装ができたというのだ。子どもばかりの宝塚にとっては、導入が簡単なのは言うまでもない。

 水の江が独自の男装で話題を呼んだ翌年の1932(昭和7)年、宝塚にも断髪の男役スタイルが波及し、「男装の麗人」が人気を博することになる。つまり、男装は少女歌劇が「子どもの歌劇」だったからこそ発展したのだ。

日本独特の芸能様式

 さて「未熟さ」の先を模索していた宝塚は、1927(昭和2)年9月に初演された「モン・パリ(吾が巴里よ)」によってレビュー路線に転向し、1930(昭和5)年に「すみれの花咲く頃」を主題歌にもつ「パリゼット」が成功を収めて以降、恋愛物語が定番化していく。これは、従来のお伽歌劇路線からの離脱を促すものとなり、子どもを中心とする家族に代わって大劇場の客席を埋め尽くしていく女学生たちを前に、やがて小林は「家庭本位」に代わって「清く正しく美しく」の標語を掲げるようになっていった。「純粋」という語は「レビューといえども、怪しげなものではありません」という新たな意味合いが付け加えられ、無邪気な子どもらしさのイメージは忘れられていった。

 それでも、初期の宝塚の「未熟さ」が生んだ「育成システム」「ご当地少女グループ」「恋愛禁止ルール」といった日本独特の芸能様式は、現代にまで受け継がれているのである。

周東美材(しゅうとうよしき)
大東文化大学准教授。1980年群馬県生まれ。早稲田大学卒業、東京大学大学院修了、博士(社会情報学)。大東文化大学社会学部准教授。著書に『童謡の近代』『カワイイ文化とテクノロジーの隠れた関係』(共著)など。

週刊新潮 2022年6月16日号掲載

特別読物「『お茶の間の人気者』はどう作られたか 『ジャニーズ』『AKB』の源流は『宝塚』にあり」より

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