日本人の「未熟萌え」の源流は宝塚? 恋愛禁止ルールはいかにして作られたか

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観客層は「新中間層」

 それにしても、小林はなぜ、西洋のオペラを日本に移植するにあたって、「子どものおとぎ話」を少女に演じさせる方法を選んだのか? ここにはビジネス上の判断があった。

 小林には、劇団を支える観客層に一定の算段があった。その観客層とは、郊外に姿を現し始めたサラリーマン家庭などの「新中間層」の家族だった。

 日清・日露戦争後の経済成長により、国内では都市部に人口が集中していた。とりわけ、大阪は人で溢れ返って超過密状態となり、住環境の劣悪さは殺人的な様相を呈していた。特に、当時「腰弁」とも呼ばれた、安月給のサラリーマンたちの住宅事情は深刻だった。彼らをターゲットにして郊外を開発し、鉄道で通勤してもらうというのが、小林のビジネスである。当時の大阪・池田の分譲地の募集パンフレットには、煙と埃にまみれた大都市の不衛生な生活と対比しながら、自然と調和した田園都市、職住分離と電車通勤、モダンで心安らぐ家庭といった郊外生活の夢が提示されている。

新しい家族像だった「子ども中心」

 郊外生活の理想は、家族生活の理想と重ね合わせられた。それは、「子ども中心のささやかな一家だんらん」という近代家族の規範だった。今では当たり前の家族像だが、当時は「子ども中心」は新しい家族像だったのである。

 宝塚少女歌劇は、このような「郊外の新しい家族たち」をターゲットとした。そのため小林は「親子兄弟だんらんして見物」できる歌劇、「家庭本位」の歌劇を構想し、広告でも家族みんなで観てほしいとアピールした。

 さらに小林は、宝塚の少女たちをあえて「生徒」と呼び、公演が音楽学校での学習成果の実演であると強調していった。彼は宝塚音楽歌劇学校の校長に就任し、勉強、服装、外出時のマナーなどあらゆる面で少女たちの学校生活を管理し、厳しい風紀を維持した。少女たちは、高等女学校の女学生になぞらえられ、そうすることで、従来の温泉芸者や役者とは異なる地位を得ることができた。実際、宝塚少女歌劇では、俳優業に要求された鑑札が免除されていたのである。

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