ロシアが「安全操業協定」を停止 根室の漁業関係者は「経済制裁の仕返しか。町は今、疑心暗鬼になっている」

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 今月7日、ロシア外務省が北方領土周辺海域の日本漁船のいわゆる「安全操業」に関する協定を一時停止することを発表した。ロシア側は、日本政府が協定に基づく支払いを凍結し、書類の署名を引き延ばしていることが理由と主張している。【粟野仁雄/ジャーナリスト】

「安全操業」が持つ特別な意味

「安全操業」

 何の変哲もない普通名詞を2つ繋いだこの言葉は、海難事故がないように漁業をするというような意味に受け取るのが一般だろう。ところが、これは北海道の漁業界にとっては特殊な意味を持つ。

「安全」とは北方領土周辺海域での日本漁船の操業中、ロシアの警備艇から臨検(軍艦などの乗組員が他国の漁船に乗り込み操業日誌などの船舶書類を検査する)を受けたり、拿捕(だほ・軍艦などにより他国の船を抑留するなど支配下に置く)されたり、銃撃されたりしない、つまり漁船員が殺されないということを意味する。

 著者が「安全操業」の意味を初めて知ったのは、1980年代に記者として釧路に赴任していた頃だ。社会党の根室市議も務めた「歴史の生き証人」の富樫衛さん(故人)という人物に北洋漁業や北方領土問題について取材していた。その時、富樫氏の口から盛んに「安全操業」という言葉が出てきた。

「戦後、拿捕、銃撃などの悲劇が相次ぎ、何とかしたかった」と情熱的に語っていた富樫氏は、根室の漁業者としてソ連側に「安全操業」を求めて尽力した人物だった。当時、社会党はソ連と独自のパイプを持っていた。

銃撃、抑留が頻発

 1967~69年頃、作家の小田実が率いた「ベ兵連」(ベトナムに平和を!市民連合)がベトナムからの脱走米兵を船で根室から北方領土経由のソ連ルートで北欧に逃がした「JATEC事件」が世を騒がせた。富樫氏は現地の指南役だった。

 1945年夏、ソ連軍の突然の侵攻で、国後島、択捉島などから追われた島民たちは、戦後、根室市を中心に住み着いた。その生業の多くは漁業だった。ソ連が4島海域を実効支配し、「日ソ中間ライン」が設けられたが、海に壁が立っているわけでも線が引いてあるわけでもない。漁師は戦前の感覚のまま「俺の海だ」の意識で漁に出てしまう。そして、越境してソ連警備艇に追い回された末に銃撃で落命したり、拿捕されサハリンなど極東ロシアの刑務所に何か月も抑留される。帰国しても船は没収されて家族の生計が成り立たなくなる悲劇が相次いだ。

 1991年にソ連が崩壊し、冷戦時代が終わった1998年2月、悲願だった「安全操業協定」が締結された。自ら署名した小渕恵三外相が「この協定が両国関係者の信頼の象徴となる」と胸を張ったことからも、「安全操業」は日本にとって極めて大きな意味を持つ協定だった。

 妥結以来、臨検や拿捕はあっても銃撃などはされずに、基本的には安全に操業することができてきた。とはいえ、2006年8月には貝殻島付近で操業していたカニかご漁船「第31吉進丸」がロシア警備艇に銃撃・拿捕され、乗組員の盛田光広さんが死亡する悲劇も起きた。これは完全な越境操業だったとみられていた。当時、筆者は真相を訊きに根室市の船長の家に取材に行ったが、追い返されてしまった。

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