「慰安婦証言」はなぜ二転三転? 「慰安婦は売春婦の一種」発言で訴追された韓国人元教授が検証

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別の証言

 李容洙の場合と似たような証言の変化は、金学順の場合にも追跡できる。李容洙の証言が収録された『強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』34頁および35頁には金学順の次のような証言がある。(「“”」は筆者の強調)

〈“私が14歳になった年、母は再婚した”。母と私の二人だけで暮らしていたが、お父さんという人と一緒に暮らしているから、よほど不便なことではなかった。父親という声も出ず、その前にあまり出なかった。母にも愛想が尽き反抗したりするから母とも仲が悪くなった”。

“母は私をキーセン(妓生=朝鮮の芸妓)を育てる家に養女として送った”。その時、私の年齢は15歳だった。母と一緒にその家に行って歌を歌って合格した。そして、“母が里親から40ウォンをもらって数年契約で私をその家に住まわせたことを覚えている”。

 ……その家には私より先に来た養女がもう一人いた。そのお姉さんと私は、平壌キーセン見番(けんばん)に一緒に通った。見番は2階建てで、門に大きな看板もあり、生徒も300人もいた。私は2年ほど見番に通いながら、踊りやパンソリ(歌)、時調(詩)などを熱心に学んだ。

 見番で卒業証をもらうと正式なキーセンになって営業することができる。“19歳でやっと館からキーセン許可を与えられるが、17歳で卒業したので、卒業しても営業ができなかった”。それで養父は私を連れてあちこちを追いかけながら許可をもらおうと努力した。私は年齢より体が成熟しており、養父は年齢をごまかしたが、館では年齢が17歳なので駄目だと言った。

 国内で私たちを連れて営業できなかった養父は、「中国に行けばお金を稼ぐことができるだろう」と話した。それで里親の家で一緒にキーセン授業を受けていた“姉と私は養父について中国に行くことになった”。1941年の17歳のときだった。養父は中国に発つ前に母に連絡を取り、中国に行くことを許された。出発する日、“母は黄色いセーターを買って平壌駅まで出てきて見送ってくれた”〉

証言が変化した決定的証拠

 この証言もまた、金学順が貧困の犠牲者として売春に入る過程を赤裸々に見せてくれるだけで、日本の公権力の強制連行に関する証言はどこにもない。金柄憲も、この二人の慰安婦の初期証言は、彼らが「貧困の犠牲者」という事実を明らかにしただけだと指摘する。

 しかし、時間が経過し、彼女らの証言は次第に「日本軍によって強制的に連行された被害者」に化ける。

 このように証言が変化した決定的証拠は、挺対協が出版した別の本でも確認できる。挺対協を率い、現在は国会議員として活動している尹美香が2016年に出版した『25年間の水曜日』に登場する記述だ。

 同書の48頁には李容洙、138頁には金学順に関する記述がそれぞれ登場する。これらによると、李容洙は服と靴に魅了されてついて行ったのではなく、「夜寝ている時に強制的に日本軍に連行」され、金学順は母親に売られて養父が中国に連れて行ったのではなく、「拉致されて日本軍に連行された」。

 元慰安婦らの証言が歴史的事実と合致するかという問題は、筆者の刑事裁判で最も重要な争点の一つだ。なぜなら、検察が筆者を起訴した理由は、講義室で学生たちを相手に「虚偽事実」を流布し、「元慰安婦たちの名誉を毀損」したという点にあるからだ。この争点に対して裁判所はどのような判断を下すのだろうか。

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