「鎌倉殿の13人」を楽しむために…義経亡き後、頼朝は史書でどう描かれているか

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 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は前の第21話で菅田将暉(29)扮した源義経が絶命し、1つのヤマ場を終えた。だが、全放送回数は50話弱になるので、まだ折り返し地点にも達していない。大泉洋(49)扮する源頼朝はどうなるのか。史書『吾妻鏡』や『玉葉』『愚管抄』などを基に読み解きたい。

 三谷幸喜氏(60)による「鎌倉殿の13人」の脚本の特色は、史書に基づく部分と創作部分のバランスの良さ。鎌倉幕府で唯一の公式記録『吾妻鏡』などの史書を重んじる一方、それらに記述のないところは大胆に推理して物語を紡いでいる。

 たとえば三谷脚本の第20話で、源義経が奧州藤原氏4代の泰衡(山本浩司)に襲撃されると、義経の従者・武蔵坊弁慶(佳久創)は最後まで抵抗した。けれど義経の死を記録した史書には弁慶の名前がどこにもない。『吾妻鏡』には義経の従者20人余が泰衡勢と戦い、敗北したとあるのみ。

 また、三谷脚本の同話では源頼朝の命を受けた北条義時(小栗旬)が煽ったから泰衡は義経を襲ったことになっていたが、この下りも史書には見当たらない。

 半面、史書にないからこそ弁慶が最後まで義経に献身した可能性も否定できない。また、頼朝は腹心の義時に対し、工作を命じていたのかも知れない。

 三谷氏はその時の状況やそれまでの人間関係などから、あの時代を推理し、史書の隙間を埋めている。史書に支配されていないから豊かな物語性があるし、かといってウソを並べ立てているわけではないから説得力がある。これが「鎌倉殿の13人」が観る側を惹き付けている理由の1つだろう。

 ここからは史書に沿い、義経亡き後の時代を追いたい。

 義経が泰衡勢に追い詰められて自害したのは1189年4月30日。泰衡は同6月13日、酒に浸した義経の首を頼朝に送った。三谷脚本でも第20話で描かれた。泰衡は頼朝に対し「自分には敵意がない」と伝えたわけだ。

 義経の死を受け、後白河法皇(西田敏行)は頼朝に対し、「平和な世になったのだから、弓箭(武器)は袋に収めるように」と伝えた。奧州は攻めるなということだった。

 だが、頼朝は聞き入れなかった。「義経を匿った泰衡の罪は反逆に勝る」と主張する。いつもながらの頼朝論法である。最初から藤原氏を滅ぼすつもりだったのだ。

 頼朝は朝廷の宣旨がないまま同7月19日に軍勢を奥州に向けて送り出す。9月2日には泰衡の首が頼朝に届いた。藤原氏は4代で滅亡した。

 泰衡は義経の首を頼朝に送ったと思ったら、その2カ月半後、今度は自分の首が頼朝に届けられる羽目に。あまりに陰惨。こうなるくらいなら、泰衡は義経とともに頼朝と戦っておくべきだったのだが、まさに後の祭りである。

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