効率性最優先の時代は終わった? 求められる新たな国家像とは

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国家権力=悪という図式

 戦後の日本は、アメリカ由来の個人主義と経済成長に加え、「自由と民主主義」を自らのアイデンティティーとしてきました。しかし、ウクライナ危機で明らかなように、「正義は我らにあり」と単純に自由と民主主義を叫んでおけば事は済むという時代は終わりました。何よりも、トランプのポピュリズムと、国民の分断を招いたバイデンのコロナ対策が奏功しなかった点を見れば、本家本元のアメリカで民主主義が揺らいでいることは明白です。

 また自由も同様に、戦後以来の捉え方はすでに耐用年数を迎えています。例えばコロナ禍が始まった頃、「ロックダウンすべきだ」という立場と、「国家が国民の自由を縛るなかれ」という立場が対立しました。

 後者の主張の前提となっている国家権力=悪という図式が、戦後の基本的な国家をめぐる議論をつくってきた。しかしこの図式も耐用年数を超えています。むしろ今、有形、無形に私たちの言動を縛り、権力を振るっているのは、目先の利益と見通しの良さを是とするグローバルIT企業によるイメージ操作です。そのとき、世界規模で広がるイメージに、一定の規制をする国家こそ、情報の真偽を取捨する最後の防波堤になり、自由を保障してくれるのかもしれないのです。

組織に守ってもらえない不自由

 こうした国家からの逃走、組織からの逃走、「~からの自由」という発想を、コロナ禍以前までの日本人は肯定してきました。良い例は「フリーランス」の礼賛です。企業や組織から離脱した彼らは自由な存在であり、その自由から創造的な発想が生まれてくると考えた。こうした発想の根底にあるのも、最初に述べた合理的で「見通しの良い社会」観です。組織に所属するとは、いろいろなしがらみがあるということ。こうしたもの「から自由」になり、自分の発想が即座に形になる方が、短期的に成果がでる。つまり合理的に考えると正しいし、見通しが良くなるわけです。

 1980年代には「フリーター」という言葉が時代を席捲し、肯定されました。しかしその後、バブル崩壊とともに、フリーターは「非正規雇用」と呼ばれるようになった。「フリーランス」も「フリーター」も「非正規雇用者」です。彼らの自由とは、組織によって守ってもらえない不自由であり、安定した人間関係を構築しづらい不自由でもあるのです。

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