プーチンはいつどこで狂った? インタビューから読み解く「少年時代のコンプレックス」

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風呂なしの共同アパートで生活

 なぜ彼は、“明瞭”とは言い難い暗い妄執にとらわれるに至ったのか。

 歴史に汚名を刻むことになったプーチンは1952年10月、レニングラード(現サンクトペテルブルク)で生まれている。両親は第2次世界大戦がはじまる前に結婚。もうけた2人の子供は幼くして死んだという。戦争が始まると前線に送られたプーチンの父親は、ドイツ軍との戦いで重傷を負い、片足が不自由に。プーチンが生まれたのは戦後、父親が鉄道車両工場で働いていた頃だった。

 当時、プーチン一家が暮らしていたのはほとんど何の設備もないような共同アパート。お湯は出ず、風呂もない。トイレから漏れた水は階段の踊り場にピチャビチャとたれていた。先に触れたインタビュー本『自らを語る』では、アパートの中庭でよく遊んでいた頃の自分について、〈けんか早いところ〉がある〈問題児〉だったと振り返っている。しかし10歳を過ぎて柔道を習うようになってからは優等生に変貌し、将来の夢を〈スパイ〉と定める。きっかけは「盾と剣」のようなスパイ映画に心を動かされたことだった。

強いコンプレックス

 プーチンは9年生(日本では中学3年に相当)の頃、KGBの支部を訪ねている。

〈「ここで働きたいんです」と私は言った。「それはすばらしい。だが、いくつか問題があるな」と彼は言った。「まず、志願してきた者は採用しない。次に軍の出身か大学の卒業生しか入れないんだ」〉(『自らを語る』より)

 猛勉強の末、レニングラード大の法学部に進んだプーチンは大学時代を通じてKGBからの接触を待った。ついに勧誘を受けたのは大学入学の4年後。ようやく念願の職場で働く権利を得たのだった。

『自らを語る』は複数のジャーナリストのインタビューによって構成されている。『プーチンの実像』(朝日文庫)によると、そのうちの一人、ゲボルクヤン氏は後にこう語ったという。

〈彼がKGBに行ったエピソードについても、私はなんのロマンも感じなかった。ソ連で最も強くて、最も恐ろしくて、最も力がある組織に帰属したいと考えたのだろう。これも、彼の子供時代と関係があるように私には感じられた。彼の話からは、強いコンプレックスと、その結果としての、負けることだけは我慢がならないという強い思いが伝わってきた〉

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