グローバル化が生んだ「エリートと庶民の分断」 経済的移民の受け入れは本当に人道的なのか

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国境は「障壁」か

 ヨーロッパで支配的なこの戦後的見方に、ハゾニー氏は異議を唱えます。ナチスの暴走はナショナリズムによるものではなく、帝国的世界観に基づいたものであったのだと。実際、ナチスは第三帝国を標榜していました。そして、実はグローバリズムも帝国的世界のひとつの形であるとハゾニー氏は指摘します。私もこれに同意します。なぜならグローバリズムとは、国境や国民国家は古いものであり、できるだけそれらをなくして、合理的な制度やルールに基づく単一的な世界を広げていこうという「帝国的」な考え方だからです。

 事実、グローバル化したほうが自由で、平等で、民主主義的で、多様性も生まれるという、日本で抱かれがちなイメージは、正しいものといえるのでしょうか。グローバル化によって、世界には多様性どころか「グローバル化という単一化」が広がったのではないでしょうか。

 財界の人を中心に、グローバル化を進めれば、国境が取り払われてさまざまな文化的出自の人々が集うことになり、いろいろな物の見方が提示され多様化が進む、とよく言われます。

 しかし私は、この想定に同意できません。一世代限定という短期間であればそうかもしれませんが、長期的に見た場合、多様性が持続するとは思えないのです。国境の垣根が低くなれば、国のあり方そのものが溶解し、文化が均一化していく。そのうちみんなが英語を話すようになり、物の見方も、大都市に住むインテリたちのそれが支配的となって画一化していく……。やはり文化的多様性を維持したいのであれば、ハゾニー氏が言うところの「多数の国々からなる世界」という、それぞれの文化や伝統を大切にしていく必要があると考えます。

エリートの劣化

 みなさん、もうお忘れかもしれませんが、一昨年、コロナ禍が広まった直後に「9月入学」の議論が喧(かまびす)しく行われました。その理由のひとつに、この際、グローバル基準に合わせようという考え方があった。一方で、「桜」と深く結びついた「4月入学」を変えるべきではないとの意見もありましたが、「情緒的だ」と批判にさらされました。私は、情緒的として片付けられる問題ではなく、桜とともに卒業式や入学式を行う4月入学は、日本の国民を結びつける大事な文化だと考えます。しかし、グローバリズムはそれを許さない。

 さらに、グローバル化はエリートの劣化をもたらしました。昔のエリートは、欧米社会においては少なくとも建前としてはノブレス・オブリージュの考え方を身に付けていました。日本でも、地位なり財なりを築いた人は社会に還元するという意識を持っていた。例えば、出光興産の創業者である出光佐三は、数十億円の私財を投じて、今は世界遺産に登録されているものの昭和初期は荒廃していた宗像大社の再興に尽力しています。このように、昔のエリートは地域や国に恩返しする見識を持っていた。

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