「在日本朝鮮人連盟」と一体化していた日本共産党 活動資金、人的ネットワークをカバー

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すばやく指針を作った朝鮮人

 朝連結成時の72人の中央委員の一人で、日本共産党の再建に関わった張錠壽は、こう説明している。

「一九四五年の一〇月までは、解放前に意識を持って活発に活動をして、指導的立場にいた人たちは、日本人でも朝鮮人でもみんな刑務所に放りこまれていた。外にいた者で、転向した者は別として、懲役期間の短かった者は、いちおう出されてはいたが、保護観察で刑事がずっと張り付いていたから、大したことはできなかった。特高警察が解散されて、治安維持法も撤廃されるのは一〇月以降だから、監視が付けられている者はそれまで身動きができなかった。(中略)

 一〇月になって、共産党員、社会主義者、アナキストたちが解放された。日本共産党員も一〇月一〇日に獄中から出てきたが、元共産党の幹部たちは、十何年も獄中にいたために国内情勢について正確な判断ができなかった。また、日本人は気が抜けてしまって脱落していた。そのような状態で、みんなどうしていいかわからず、うろうろしていた。

 そのなかで、この時期にいち早くこれからの方向を見極め、すばやく行動に移せたのは朝鮮人だった。朝連が出てきて、その組織を通じてむかしの仲間に連絡をつけたわけだ」(張錠壽『在日六○年・自立と抵抗』社会評論社)

掛け持ち党員

 日本共産党の幹部たちは、獄中に長くいたため、いわゆる「ムショぼけ」で、社会にすぐ適応できずにいた。理念を実行に移すには、組織を作るにせよ会を開催するにせよ、事務的な手続きや、生活の知恵が必要である。一方、在留朝鮮人には戦前からさまざまな団体組織があり、朝連も結成され、縦横の連絡網がしっかりと構築されていた。日本社会でお互いに助け合いながら生きてきた朝鮮人のほうが、社会性があったのである。

「『日本共産党は全滅したが、いまやっと立ち直って産声をあげているんだ。これをどうにかしなければ』と社会主義運動をやっていた朝鮮人は考えて、共産党との連絡をつけ、元党員を刑務所から連れだして応援をして、この人たちの組織を手伝った。むかし、われわれが日本に来ていじめられていたときに、われわれの味方になってくれた恩返しをしたわけだ」(同前)

 そして多くのメンバーが朝連と日本共産党の掛け持ちをする。

「日本における社会主義運動は、日本にいる朝鮮人も日本の社会主義者といっしょに運動しなければならないと考えて、わたしは組織を通じてあちこち歩いてまわって、共産党員と連絡をつけた。ちょうど朝連の関西本部ができて朝連の組織化を作るために歩いていた時期と同じ頃である。この時期、わたしは朝連と日本共産党の活動を両方やっていたわけである。党の組織を起こすと言っていたのが、四五年九月中ごろだったから、それから一〇月にかけて、とにかく精力的に動きまわった」(同前)

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