元公安警察官は見た 吉田茂邸の“お手伝いさん”をスパイに仕立て上げた諜報機関の手口

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 日本の公安警察は、アメリカのCIAやFBIのように華々しくドラマや映画に登場することもなく、その諜報活動は一般にはほとんど知られていない。警視庁に入庁以後、公安畑を十数年歩き、数年前に退職。昨年9月に『警視庁公安部外事課』(光文社)を出版した勝丸円覚氏に、吉田茂邸に陸軍中野学校からスパイにされた“お手伝いさん”について聞いた。

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 1938(昭和12)年3月、陸軍参謀本部(後に陸軍省)直轄の諜報機関が創設された。

「当初は千代田区の九段にありましたが、1939年に中野区に移転したことを機に、陸軍中野学校と名付けられました」

 と解説するのは、勝丸氏。

「中野学校では、今では考えられない研修を行っていました。服役中の詐欺師やスリを講師として呼んでいました。言葉巧みに相手を騙したり、相手のポケットからこっそり資料を抜き取る際の手口などを教わったりしたようです」

伊賀や甲賀の忍者が講師

 伊賀や甲賀の忍者の継承者を招いて、忍術について学んでいたというから驚く。

「さらにフレンチ料理のマナー、社交ダンスも教えていました。海外で諜報活動を行うとき、現地に溶け込むために、語学を始めとしてあらゆることを身につけさせたのです」

 中野学校の諜報員は、インドやビルマ(現・ミャンマー)など海外での活動がメインとなっていた。

「ただ稀に、日本国内で活動することもありました」
 
 太平洋戦争中、中野学校は親英米派で戦争に反対だった吉田茂元駐英大使をマークしていたという。

 1943年4月、神奈川県伊勢原市に住んでいた高橋正子さん(仮名)は、近所のAさんから「吉田茂がお手伝いの女性を探している」という話を持ちかけられた。正子さんは伊勢原市の農家の長女で、地元の高等女学校では短距離走の選手。健康的で活発な19歳の女性だった。

 東京に住んでいた正子さんの叔父も、たまたま彼の囲碁仲間で吉田と親しい元新聞記者からお手伝いを探しているのを聞かされていた。それもあって、正子さんはすぐに永田町の吉田邸に行くことになった。

 吉田邸で働き始めて5日目、Aさんの紹介でBという男性が吉田邸におはぎを持って現れた。戦時中おはぎは大変なご馳走だったため、みんなから歓迎されたという。

 正子さんは初めての休日、赤羽にある叔父の家に出かけるため吉田邸を出ると、なぜかBさんが待っていたという。Bさんは、「戦時中で切符が買えないかもしれないから、叔父さんの家まで車で送ってあげよう」と言い、彼女は不思議に思いながらも、車に乗った。

 叔父の家に到着すると、Aさんの他にCという男性も来ていたという。

「中野学校は、正子さんの行動をすべて把握していました」

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