「さわやかイレブン」池田の快進撃…紅白戦も組めない小所帯のチームがセンバツで果たした“快挙”

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“二十四の瞳”と呼ばれ

 3年後の77年、今度は部員12人のチームが旋風を巻き起こす。春夏通じて甲子園初出場の中村(高知)である。

「ヘタクソばかりだが、努力すれば報われるんだ」と市川幸輝監督が12人を鍛えに鍛え、四国大会準Vで地区第2代表に選ばれたチームは、当初“フレッシュ12人”と呼ばれていた。

 190センチの長身右腕・山沖之彦(元阪急・オリックス→阪神)は、開会式直後の第1試合の戸畑戦、試合前の投球練習の際に初球をバックネットに突き刺さる大暴投を演じて緊張をほぐすと、被安打2の11奪三振完封。2回戦の海星戦では2点を失うも、被安打4の11奪三振で、チームを8強に導いた。

 圧巻だったのは、センバツ通算1000試合目となった準々決勝の天理戦。山沖は、のちに巨人などで活躍する鈴木康友をはじめ超高校級の強打者が並ぶ優勝候補を相手に、4回2死まで打者11人中8人を三振に切って取る。

 直後、四球と鈴木の右翼線二塁打で1点を先制されたが、そんな劣勢を全員野球で挽回する。5回に2つの犠打と8番打者のタイムリーで追いつくと、6回に上位打線の長短打で逆転し、8回にも長打で2点をダメ押し。打線の援護を得て気合が入った山沖は、終盤以降も球威が落ちず、13奪三振と力でねじ伏せた。

 市川監督も陽気な性格さながら、1回戦では「開幕試合をやれるなんで、素晴らしいことではないか」、天理戦では「1000試合でいい試合をしたら、すごい記念になるぞ」と試合のたびに“魔法の言葉”を口にして、選手をその気にさせた。

 連日の快進撃に、いつしかチームは同じ四国を舞台にした小説の題名にちなんで“二十四の瞳”と呼ばれるようになった。決勝の箕島戦では、3連投の山沖が11安打を浴びて0対3で敗れたが、「負けて悔いはありません」(市川監督)とさわやかな笑顔で甲子園をあとにした。

「よく10人でここまでやってくれた」

 大会史上最少の部員10人で出場し、“大成十勇士”と呼ばれたのが、87年の大成(和歌山、現海南大成校舎)だ。5年前にもセンバツに出場しているが、もともと部員数20人足らずの年が多く、前年は1年生の入部ゼロ。夏の大会を最後に4人の3年生が抜けると、2年生10人だけが残った。

 他の運動部員から「もうすぐ廃部やなあ」と冷やかされたが、10人の絆は強く、練習に来なくなった部員をチームメイトが励まし、定時制の部員が授業に出るために練習を抜けると、残ったメンバーでカバーして穴を埋めた。

 秋の和歌山県大会では、準決勝で箕島に延長14回の末、サヨナラ勝ちするなど、最後まで試合をあきらめない粘り強さで見事優勝。近畿大会は初戦で明石に延長10回、1対2と惜敗したが、その明石が準優勝したことや地域性も加味され、最後の7枠目でセンバツ出場が決まった。

 初戦の相手は優勝候補の東海大甲府。1対1の6回に2安打2四球で2点を勝ち越し、主導権を握るが、1点差に迫られた9回、四球をきっかけに逆転を許してしまう。

 その裏、2死無走者で、没収試合を防ぐため常にベンチで待機していた背番号10・阪上幸信が公式戦初打席に立った。三振でゲームセットも、当時23歳の大畠和彦監督は「よく10人でここまでやってくれた」と強豪相手の大善戦に満足そうな表情だった。

 その後、2017年にも部員10人の不来方(岩手)が21世紀枠で甲子園初出場をはたしているが、初戦で敗退している。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮編集部

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