記憶に残った銅メダリスト「ジャネット・リン」 審判として復帰した理由は(小林信也)

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 ジャネット・リン(米)は、1972年札幌冬季五輪で日本中を魅了し、最も鮮烈な記憶を残した選手の一人だ。華やかなフリーの演技、眩しい笑顔は「銀盤の妖精」そのものだった。

 極めつきはシット・スピンでバランスを崩し、尻もちをついた時だった。ジャネット・リンは、はにかんだ笑顔を浮かべ、すぐ立ち上がって演技を続けた。その笑顔に、日本中が衝撃を受け、誰もが彼女に心を奪われたのだ。素晴らしい演技の対極にあるはずの尻もちと笑顔が、ジャネット・リンを特別な存在に昇華させた。

 フリーは1位。転倒があっても芸術点は満点の6.0の評価を受けた。だが、彼女の胸に贈られたのは金メダルでなく銅メダルだった。おそらく札幌五輪のフィギュアスケート女子シングルで金メダルを獲った選手の名はほとんどの日本人が覚えていないだろう。忘れないのは銅メダルのジャネット・リンだ。五輪後、彼女の元には日本から1万5千通もの手紙と贈り物が届いたという。

 高校1年生だった私はちょっと変わっていたのか、ジャネット・リンにはさほど胸は躍らず、大人っぽいオーストリアのベアトリクス・シューバに魅かれた。当時人気アイドルだった天地真理に髪型が似ていた。私は「18歳で可愛い系」のジャネット・リンより、「20歳で綺麗なお姉さま系」のシューバを密かに応援した。金メダルを獲ったのはそのシューバだった。

図形を描く

 フィギュアスケートに「規定演技」(コンパルソリー)があるのは札幌五輪で初めて知った。フリーの華やかさと対照的に、2日間にわたって行われる規定演技は衣装も競技風景も地味そのもの、何かの検定試験のような重苦しさだった。

 選手たちは課題に出された各種の図形を左右のスケートで3回ずつ氷の上に描く。トレースの正確さや美しさを審判がジャッジし、ポイントをつける。順位は規定とフリーの合計点で決まる。68年までは規定が6割を占めていた。札幌五輪の時は5割ずつだったが、規定を終えた段階で朝日新聞はこう書いている。

〈この結果、シューバは自由演技がよほど不出来でない限り、優勝は確定的である〉

 第5課題で失敗し、シューバとの差が172.4になったジャネット・リンは、リンク脇の機械室に駆け込み、両手で顔を覆って泣きじゃくったという。フリーで見せた華やかな演技と笑顔の裏側に、そのような失意があった。

 シューバは、フリーでは7位にとどまった。それでも規定3位でフリー2位のカレン・マグヌッセン(カナダ)、規定4位でフリー1位のジャネット・リンの逆転を許さなかった。

 シューバの合計は2751.5点。ジャネット・リンは2663.1点。世界中を魅了する演技を披露してもなお、88.4点差に迫るのが精一杯。マグヌッセンに次いで3位になった。しかし、人々の記憶に深く刻まれたヒロインは、メダルの色と無関係だった。

 この出来事をきっかけに、翌73年から規定とフリーの間に「ショート・プログラム(SP)」が採用された。さらに91年限りで規定は廃止され、現行のSPとフリーになった。

 フィギュア界は、競技名の由来ともなった図形(フィギュア)を描く規定演技を競技から消滅させたのだ。その恩恵を受けた一人が、伊藤みどりともいわれる。女子で初めてトリプル・アクセルを跳んだものの規定が苦手だった伊藤みどりは、規定から解放された92年アルベールビル五輪で銀メダルを獲得している。

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