鎌倉殿の13人 9話以降を楽しむために抑えておくべき史実を解説

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なぜ頼朝と武田信義は不仲なのか

 これまでの物語の中で生じた疑問点についても考えたい。同じ源氏でありながら、どうして頼朝と武田信義(八嶋智人)は犬猿の仲なのか。

 頼朝は石橋山の戦いで敗れた後、時政に向かって「ワシはここで死ぬわけにはいかんのじゃ。命懸けでワシを守り抜け!」と厳命しながら、武田に援軍を頼むという提案が出ると「あいつに頭を下げるくらいなら、今すぐ自害する」と却下した。大いなる矛盾だった。

 その後の第6話では今度は信義が、加勢を要請に来た頼政と義時に対し、「頼朝に力を貸すつもりはないが、北条は助けてやってもよいぞ」と素っ気なく言った。

 なぜ、ここまで仲が悪かったかというと、2人が清和天皇(第56代)の流れを汲む同じ清和源氏で同格ながら、頼朝が清和源氏の嫡流を名乗っていたからだろう。

 また、清和天皇は頼朝の10代前、信義の9代前の先祖。途中で頼朝らの河内源氏や信義らの甲斐源氏などに分かれたので、身内意識も薄かったはずだ。

 それでも信義は頼朝軍に加わった。ただし、頼朝との関係は微妙なまま。この2人の主導権争い、駆け引きも今後の見どころの1つだ。

 やはり清和源氏の流れを汲み、信濃源氏の棟梁になった木曽義仲(青木崇高)も平家打倒の兵を挙げたものの、頼朝軍とは別の動きだった。それもあって、やがて頼朝の非情さを嫌というほど味わう。

 頼朝の兄弟仲はどうだったのだろう。頼朝の男兄弟は本人も含めて9人。頼朝は3男だが、上の2人は父・義朝が1159年の平治の乱で清盛に敗れた後、相次いで亡くなった。

 4男は早世。5男で土佐国に流されていた希義は頼朝が挙兵した後、平家方に討たれそうになったため、自害した。

 6男・範頼(迫田孝也)は遠江国の貴族に引き取られていたものの、頼朝軍に加わり、勝利に貢献した。ところが、後に頼朝に謀反の疑いを掛けられ、伊豆に流されてしまう。

 7男・阿野全成(新納慎也)は第7話で初登場した僧侶。義朝の敗戦後に出家し、京の醍醐寺で育った。

 政子、実衣(宮澤エマ)、りく(宮沢りえ)、が祐親の家人にさらわれそうになると、「私が風を起こす。その間に逃げられよ」と大見得を切ったが、もちろん無理だった。

 全成は占いが出来るとも称していた。当時の武士は占いを重んじていたので、頼朝に重宝された。やがて実衣と恋仲となり、北条家と歩調を合わせ始める。

 8男の義円(成河)も近江国の園城寺で出家したが、弓矢の名手だった。頼朝を助けるために平家と戦ったものの、悲劇的な運命が待つ。

 九男で戦術の天才・義経(菅田将暉)は源平合戦勝利の大功労者だったものの、頼朝と反目し、居場所がなくなる。奥州平泉町に落ち延びたものの、やはり悲しい末路を辿る。

 はたして頼朝の味方になって幸せになった者がどれだけいたのだろう。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。1990年、スポーツニッポン新聞社入社。芸能面などを取材・執筆(放送担当)。2010年退社。週刊誌契約記者を経て、2016年、毎日新聞出版社入社。「サンデー毎日」記者、編集次長を歴任し、2019年4月に退社し独立。

デイリー新潮編集部

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