文豪「坂口安吾」の“堕落論”的秘蔵アルバム

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「堕落論」「白痴」「不連続殺人事件」―。

 敗戦後、混乱のさなかにあった日本において、次々と話題作を世に問い、一躍時代の寵児となった坂口安吾(1906~55)。売れっ子作家として押しも押されもせぬ存在だった1951年、彼はとある珍騒動を巻き起こし、世の注目を集めることに。

 その頃、安吾に随伴し、ともに過ごしたカメラマンは、“無頼派”の素顔をフィルムにおさめていた。

 2月17日の命日〈安吾忌〉を記念し、特別公開する。

 流行作家でありながら、ヒロポンや睡眠薬による薬物中毒に苦しんだ坂口安吾は、1949年、静岡県伊東市にて転地療養を始めた。健康を取り戻すと、今度は国税庁に対して“税金不払い闘争”を行うなど、“無頼派”の面目躍如といったところだ。

 そして51年9月、〈伊東競輪不正告訴事件〉を起こす。八百長があったとして伊東競輪の運営団体を検察庁に告発したのである。

「団体側のガラの悪い連中が脅してきて、恐ろしくて、彼はまた精神がおかしくなってしまいました」

 そう当時を振り返るのは、カメラマンの高岩震氏(93)。

「片手に睡眠薬をたくさん持って、ジン一瓶とともに飲み干していたのを憶えています。棒を振り回すなんてこともしばしばありました」

 告訴の経緯を文芸誌『新潮』に「光を覆うものなし―競輪不正事件―」として寄稿するなど奮闘するも、最終的に嫌疑不十分で不起訴。泥仕合に疲れ果てた安吾は、東京・石神井にあった友人、檀一雄の自宅に身を寄せることに。

 文豪にして酒豪の二人は酒とともに狂乱の日を送る。そんな日々を象徴するのが、〈ライスカレー百人前事件〉。安吾が自分の妻に“ライスカレーを百人前頼んでこい”といい、妻は近所の食堂や蕎麦屋をまわって調達したというもの。檀によれば20皿ほどが檀家の芝生に並べられたそう。こうした無茶ぶりも檀夫妻は受け入れていたようだ。

「堕落論」で、〈生きよ堕ちよ〉と説いた安吾。カメラは捨て身の無頼派、真骨頂の日々を捉えていたのである。

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