顔面をボコボコ、オープン戦で大乱闘…日本球界を恐怖に陥れた「狂暴助っ人列伝」

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マウンドに突進、飛び蹴りで応酬

 3年連続パ・リーグのシーズン退場第1号という、ある意味グレートな記録をつくったのが、“パナマの怪人”フリオ・ズレータだ。

 まず、ダイエー時代の2004年3月29日の西武戦、張誌家から2打席連続死球を受けたズレータは、マウンドに向かい、威嚇したことから、来日初退場。身長197センチ、体重113キロの巨漢が強面で迫ってくるのだから、これは確かに怖い。

 さらに、同年9月8日のロッテ戦では、本塁打の次の打席で、ダン・セラフィニの故意とも思える背中を通過する危険球に激怒し、ヘルメットを投げつけてマウンドに突進。セラフィニも飛び蹴りで応酬し、プロレス顔負けの大乱闘になった。

 エキサイトしたズレータは、センターから仲裁に駆けつけた、ロッテのベニー・アグバヤニの左肩にもキックをお見舞いし、負傷させてしまう。セラフィニともども退場処分を受けたズレータは、8月3日のロッテ戦で球審に暴言を吐いて2試合出場停止になった事件も併せて、前出のバナザードのシーズン3度の退場記録に並んだ。

 チーム名がソフトバンクに変わった翌05年も、5月5日のオリックス戦で、球審への暴言により、2年連続パ・リーグのシーズン退場第1号に。さらに06年4月16日の日本ハム戦でも、6回に金村暁から死球を受けた直後、猛タックルをかまし、計3発のパンチを浴びせて負傷させたことから、3年連続シーズン退場第1号の“怪挙”とともに10日間の出場停止処分を受けた。

 そんな球史に残る“暴れん坊”も、ふだんは心優しいナイスガイで、シーズン中に「闘病中で球場に足を運ぶことができない子供たちに元気を与えたい」と自ら希望して、小児病棟を慰問していたというから、本当に人は見かけによらない。

乱闘だけして帰っていった

 NPB在籍はたった1年だが、コアなファンの間で「史上“最狂”の暴れん坊では?」と言われているのが、1990年に中日入りしたベニー・ディステファーノだ。米マイナー時代から“ベニー・エキサイティング”と恐れられた狂暴ぶりが最初に発揮されたのは、同年3月15日のオープン戦、西武戦だった。

 8回に鹿取義隆から背中に死球を受けたディステファーノは、「シーット(くそったれ)!」と怒り狂うと、手にしていたバットをマウンドの鹿取にめがけて投げつけた。バットは逸れて、大事に至らなかった。

 しかし、怒りが収まらないディステファーノは、今度は捕手・大宮龍男をボコボコに殴りはじめた。大宮も逆襲に転じ、たちまち膨れ上がった乱闘の輪の中で、中日・星野仙一監督も顔を真っ赤にして怒鳴り散らすなど、オープン戦では“異例の大騒動”になった。なお、張本人のディステファーノが退場処分になったのは言うまでもない。

 そして、シーズン開幕後もエキサイティングな事件が起きる。5月24日の巨人戦、チームメイトのバンスローが顔面付近に危険球を投げられたことに逆上したディステファーノは、巨人・松原誠コーチの野次に怒った星野監督とともに三塁側巨人ベンチを襲撃した。巨人・江藤省三コーチの顔面を殴り、鼻の下から出血させるけがを負わせたことから、当事者ではないのに退場になった。

 しかし、天下無敵の乱闘パフォーマーも、本業の野球では、打率.215、5本塁打と期待外れに終わり、“乱闘だけして帰っていった助っ人”として記憶されている。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮編集部

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