故・石原慎太郎氏が残した「鉄道分野」の意外な功績をたどる  東京駅の復原にも貢献

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 2月1日、国会議員や東京都知事を歴任した石原慎太郎氏が死去した。

 石原氏は大学在学中に執筆した『太陽の季節』で芥川賞を受賞。彗星の如く現れた新人作家は、瞬く間に文壇のスターとなった。

 1968年には参議院議員に当選。活躍の場を政界にも広げる。作家として傑出した才能を持っていることは間違いないが、他方で政治家・石原慎太郎の評価は毀誉褒貶が激しい。特に、外交・防衛といった分野においてはナショナリズムを全面に出した発言が目立つ。そんなイメージが強い石原氏だが、その功績は意外にも鉄道分野で際立っている。

 1987年に竹下登内閣が発足すると、石原氏は運輸大臣に就任。ここから本領を発揮していく。翌月、石原大臣は宮崎県へと足を運んだ。当時、国鉄は新幹線に代わる新しい高速列車の可能性を求めて、磁気式浮上鉄道の開発を進めていた。磁気式浮上鉄道は、一般的にリニアモーターカーと呼ばれる高速列車を指す。

 国鉄は東京都国分寺市に所在する鉄道技術研究所(現・鉄道総合技術研究所)でリニアモーターカーの実験を繰り返していた。

 研究所の敷地は広大だが、敷地内で列車を走らせる実験は難しい。そこで本格的な実験線が宮崎県日向市・都農町に建設された。その全長は、約7キロメートル。当時のリニアは、時速500キロメートルも理論上で可能とされていた。約7キロメートルの短い実験線だったため、有人運転は時速400キロメートルを出すのが限界だった。

 とはいえ、新幹線よりも速いリニアなら、あっと言う間に7キロメートルを走り終えてしまう。短い実験線に、就任間もない石原大臣が視察のために訪問した。リニア試乗後、石原大臣は「鶏小屋と豚小屋の格調の実験線」と悪態とも思えるようなコメントをしている。

 地元・宮崎県民は石原発言に抗議をしたようだが、他方でリニア開発責任者を務めていた京谷好泰氏は、その著書『リニアモータカー 超電導が21世紀を拓く』(NHKブックス)の中で「鶏も豚も、素晴らしい公害センサー」と石原発言を好意的に受け止め、そして鶏小屋・豚小屋の間を走るリニアを誇らしげに語っている。

 京谷氏は、開発以前からリニアが将来的に新幹線を上回る高速鉄道になると信じて疑わなかった。その一方、時速500キロメートルで走るリニアは周囲に騒音や振動といった大変な環境負荷を与える。それらは計測器で数値化できるが、リニアは毎日のように走っている。絶え間ないリニアの振動と騒音によって、心的なストレスが蓄積されていくこともあるだろう。蓄積されるストレスは、計器類で可視化できない。

 鶏も豚も振動や騒音には弱い。京谷氏は「リニアの試走を繰り返せば、その振動や騒音で鶏や豚が健康を害すのではないか?」と心配していた。宮崎実験線において沿線の農家からクレームが入ることはなく、京谷氏の心配は杞憂に終わった。

 実験線の沿線に鶏小屋や豚小屋が立地していることは、リニアが与える負荷を確かめるためにもありがたい話だった。感謝を込めて、京谷氏は「素晴らしい公害センサー」と胸を張った。

成田空港高速鉄道

 沿線の農家の心情を害することに臆面もなかった石原大臣は、リニアだけではなく高速鉄道全般に興味を示した。石原大臣は建設途中で凍結された成田新幹線にも物申している。

 1964年、東京駅-新大阪駅間で東海道新幹線が開業。夢の超特急は、高度経済成長のシンボル的な存在になっていく。

 実は、開業以前から全国の主要都市に通じる新幹線計画は浮上していた。新幹線が走り始め、それが素晴らしいものだとわかると、人口の少ない田舎町からも「おらが町にも新幹線を」という強い要望が寄せられる。

 当時、自民党の田中角栄幹事長は「新幹線は地域開発のチャンピオン」と形容し、自民党の重鎮たちの地盤へ新幹線を建設するように画策していた。

 田中は、大蔵大臣を歴任した水田三喜男議員が千葉県出身であることに着目。成田空港の建設計画が進められていたことも相まって、空港へのアクセスを担う成田新幹線の建設に動き出す。

 成田新幹線は1974年に着工したが、路線建設予定地の住民や東京都知事の美濃部亮吉から激しく反対された。一部区間で用地買収を済ませて着工もしていたが、建設は中止に追い込まれた。

 成田新幹線のために用意された土地は、そのまま放置された。石原大臣の指示により、その未使用地は成田空港高速鉄道に転用されることになる。

 成田空港高速鉄道とは、一般的に聞きなれない鉄道会社だろう。これは第三種鉄道事業者といわれる、線路を保有するだけの鉄道会社だ。

 成田空港高速鉄道が保有する線路を、京成電鉄とJR東日本の電車が走る。京成とJR東日本は線路などの施設を保有することなく、通行する際に線路使用料を成田空港高速鉄道へと支払う。そのような仕組みにより、京成とJR東日本の負担を軽減する狙いがある。

 石原大臣のアイデアによって、1991年に成田空港高速鉄道が開通。これで、東京方面から新東京国際空港(現・成田国際空港)までのアクセスは飛躍的に向上した。

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